前回のコメツブケイソウ(コッコネイス)は反対側の殻面には縦溝があるはずなので探したのがこの方なのです。深度合成しているので全体像が何となく感じられないでしょうか。 中心と縁が一番高くて内に窪んでいるようです。胞紋も細かくてコメツブケイソウの仲間としてちょっと変わった方のように思えます。沿岸域で海藻とかに付着しているのではないかと想像しますが、波が荒くても平気な方のようにも思われます。
MWS珪藻プレパラートKMR_01(沿岸)からのコメツブケイソウ(コッコネイス)だ。珪藻は普通外縁から盛り上がっているようだが、この方は内側に窪んでいらっしゃる。少しのピント移動で胞紋の形や位置が変化して本来の姿をなかなか見せていただけないお方なのです。ですからこのカットは適切なものかそうでないのか悩ましい限りではありますがじっくりと見て元の形を思い浮かべるのに使うわけなのです。
MWS珪藻プレパラートARK_01(干潟)からのコアミケイソウだ。本家の6月8日の「あれこれ」に正六角形内にさらに細かい胞紋をもつコアミケイソウが載っている。素人とプロの差は歴然としている実に整然とした幾何学的な画像なのだが、それは横に置いといて小生のはよくよく見ると六角形が五角形になっているところもあり大きさも不揃いで正しい成長をしてこなかったような個体とも考えられる。お手本と見比べているとそんなことを思い浮かべた。良いお手本は恵みをもたらすのでしょう。
外殻が珪酸と炭酸カルシュウムのちがいはあるものの単細胞植物プランクトンの珪藻は中生代からだから古生代からの円石藻は先輩だ。ともに厳しい地球史を生き抜きかつ栄えている優れものたちだが外骨格があることがそれを支えている様な気がするがどうなのであろうか。様々な形に変化していったことは様々な環境に適合していった結果だとも言えようか。
円石藻は直径0.01mm程度で生物顕微鏡では詳細な姿は無理、電子顕微鏡の世界である。今はネットを検索すると沢山ヒットする。そのうちのいくつかを組み合わせて模写したものだ。単細胞の植物プランクトンで外殻に炭酸カルシュウムの鎧をまとっているという驚くべき生き物だ。中高の円形または楕円体をまんべんなくまとっているのが基本形のようだ。この楕円体が種によって変化極まりないというものらしい。中には幾何学図形そのものもいる。壊れたのがあったが意外と厚いのが分かる。穴あき楕円体のは隙間だらけで物質の出し入れは自在だが、五角形を組み合わせたやつはつなぎ目の隙間だけだ。それぞれの生活の仕方に適応しているのだろうが興味深い。 古生代の終わりころに出現して海底に降り積もった遺体が地層となって残っている。有名なのはドーバー海峡の白亜の崖だ。人類は地球は我がものと大きな顔をしているが地球の歴史上は一瞬の出来事に過ぎないのを悟らせる出来事だ。日々あくせくと思い悩む生き方は切実ではあるがなんとつまらないことか。
数日前にMWS「本日の画像」で円石藻の大発生で海がエメラルドグリーンになっている記載があった。よくサイクリングしているところで海を見下ろす場所がある。17日に綺麗なエメラルドグリーンをしていたので撮影した。その時は円石藻のせいだとは知らなかったのだが珍しい事件に巡り合っていたのだった。白い楕円の中は24日の様子だ。海岸沿いはまだ残っているが他は青くなっていた。近くの米神港の様子を見に降りてみたがコロナで立ち入り禁止の柵がしてある。いつもは堤防に釣り人が沢山いるのだが人気はなく円石藻もあまり残ってはいないようだった。17日の写真には岩の上に釣り人がいる。初めて見たが港が立ち入り禁止なのでこんな危ないところで釣っていたのだろう。
MWS珪藻プレパラートKMR_01(沿岸)から円心目の仲間だ。散らしのプレパラートならではだが斜めに封入されている。ピントを上部からゆっくりと下ろしていくと鮮明な部分が移動してゆく。移動する先が下に位置しているわけだ。下面を通り過ぎるか過ぎないかぐらいの微妙な位置てはまだ形になっている。右側の画像がそれである。常識で考えると赤で描いた断面図を見ているようにしか思えない。訳は分からないのだがこの特性はしっかり捕まえていないと珪藻の形を見間違う恐れがあるのだ。
MWS珪藻プレパラートKMR_01(沿岸)からカザグルマケイソウ (Actinoptychus)の輪帯照明による画像だ。海岸近くを漂っている珪藻だと思う。名前のごとく上下に三枚づつ六枚の風車を持っているわけだ。ピント位置は左から右に下がってゆく。左側はまだ珪藻の位置に達していないが上面の構造が垣間見れる。その横はもっと下にあるのだが上にあるように見えるはずだ。右側は珪藻本体の位置を通り越しているのだがしっかりと形になっているという不思議さなのだ。生物顕微鏡はほんとに興味深い。
MWS放散虫プレパラート特注品J482からの深度合成したものだ。珪藻よりかなり大きいし形も大振りで。浮遊性のものだろうがすごく立体的だ。動物性プランクトンだし単に漂ってばかりいるとも思えない。上から飲み込んだ海水を下から噴出して素早く移動し左右の腕で進行方向をコントロールする。と想像をたくましくしてしまうが、これは骨格で回りは変化に富んでいる有機体で囲まれている可能性もあるらしいしが事実はもっと奇妙かもしれない。
MWS珪藻プレパラートASK_01(池)からネイディウム(ハスフネケイソウ)と思われるもの。 このプレパラートはいろんな種類がいて楽しめる。よく覗いていたものだ。あれこれに載せるために昨日撮影して深度合成した。ピンぼけ部分がなくなるものの荒れた感じはご愛敬だ。MWSプレパラートには珍しく微小小石がまんべんなくばらまいてある。ここにもひっついているのがいるがそれもまた楽しの奴なのだ。
コロナウィルス退治は自宅でじっとしているのが一番らしいが、習字をするのは精神を落ち着かせるのもあって効果的かもしれない。 それだからというわけでもないが、江守賢治著「常用漢字など二千五百字 楷行草総覧」の臨書を続けている。見開き二ページに十二字が表示されている。それを半紙一枚に写していくわけだ。写し終えて草書のおさらいに最下段の草書体を抜き書きして末尾二行にまとめて一枚が終わる。これが頭の中に残ってくれると嬉しいのだが悲しいことに全く残らない。ただ沢山臨書していると筆の運びにこの先生の癖のようなものを感じるようになってきた。臨書の手本には名だたるものがいくつもあるそうだからこれが正解というのはないのだろう。書に関心はなく別世界であったが奥深さを感じ始めたわけだ。
MWS放散虫プレパラート特注品J482からの画像だ。 これもあまり壊れていないと思う。やはり角状のものが欠けているのだろうが長さが分からないもののなんとなくどんな具合についているのかは想像できそうだ。 この画像だと表面は平らなように見えるが実際は丸いと思う。中央の丸は大きいが離れるにしたがって小さくなり、また、ひしゃげてくる。実際は同じ大きさだとすると上に凸の曲面上に並んでいるはずだ。 どうしたら丸く写せるのか見当もつかないで途方に暮れているところだ。
MWS放散虫プレパラート特注品J482の一部が今日の画像だ。壊れたもの主体で注文したのであるが、この個体はあまり壊れていないと思う。角状のものが欠けているくらいではないだろうか。深度合成した画像で顕微鏡でこのように見えているわけではないが、これをよく見てピントをずらしながら検鏡すると見逃したことが見えてくるかもしれない。 断面を見ながら全体像を思い浮かべるのが放散虫を検鏡する楽しみなのだ。
MWSのバルバドス放散虫ニセ散布スライドから。 暖かくなってきて春の行楽シーズンなのに今年はそんな悠長なことをしていられなくなった。微生物を気にしながら生活することになるとは思いもしなかったがコロナウィルスの跋扈は目前に迫っている恐怖を感じる。 コロナウィルスよりはるかに大きいが微生物の仲間のバルバドス放散虫でも眺めていよう。
ギロシグマ(エスガタケイソウ)の電子顕微鏡写真はネットにいくつか出ている。この種ピッタリのものは見当たらなかったが似たようなものがあったので模写したのが今日の画像だ。表面と裏面のものがあって随分違うのが理解できる。 表面は平滑で条線や胞紋は非常に細い反面、裏面は凹凸も多く胞紋は丸い穴になっており条線は形状も異なる。 断面はどうなっているかを想像したのがA,B断面図だ。中央とその脇の所で考えた。 これも想像だが表面が細いスリットになっているのはこの隙間を通り抜けられるものだけが必要な物質でそれ以外は拒否しているのだろう。身体の強度を確保するには厚みが必要だが厚くすると必要物質が取り込みにくくなる。その解決法として厚い骨格の表面にスリットの開いたごく薄い板状のものを張り付けた二重構造になっているのではなかろうか。 MWSの教育用プレパラートのE−P1(沼)でたった一個しかなくコントラストも低くてあるかないかの微妙なものだったが被殻の極めて薄いギロシグマを見つけたことがある。たまたま表面が剥がれ落ちたものと考えてもよいのではなかろうか。
顕微鏡のピント位置は微妙なものだ。前回は条線にこだわって、被殻の中にわずかに入った位置だと思うが割れ目を感じさせる画像を選んだ。表面は細い線だが内部は広がっているのではっきりと写るのである。今回は表面がどう見えているのかにこだわったものだ。もう少し上げると平滑さが増すが中央部の条線端部のへこみが感じられるようなものを選んだ。 MWSが撮影すると、条線もしっかりと解像し、きれいな線が見えているはずだ。小生の実力ははるかに及ばないのでとてもできないのであるが、目を凝らしてみていると脇の方にうっすらと線が見えているような気がする。頑張りどころなんだろう。
MWSのDL-TESTプレパラートからギロシグマ(エスガタケイソウ)の中心部だ。 検体は申し分ないが、なんとも弱弱しい画像で頼りないこと甚だしいのではあるが、胞紋は一つ一つ確認できるし中央の条線もそれらしく見えているので、捨てたものではないのかなと自ら慰めているところだ。 顕微鏡を使いこなすと対物レンズが安価でもおもちゃでなければ素晴らしい画像を得ることができる実例がMWSの「本日の画像」2020年3月28日分に出ている。良い見本はそれに近づけようと努力すればよい結果をもたらすありがたいものなのである。結果はともかくとして。
芥子園画伝第三集の草虫花卉譜の芍薬のページである。 @は新藤武弘訳日貿出版社のもので画像はやや小さいが線はきれいに印刷されている。Aは中華書房香港分局の出版で線も太くてかすれているようなところも多くて不満の出るものであった。Bはそのカスレ部分を@を参照しながら鉛筆で補正したものだ。随分見やすくなった。 赤丸のところは@のほうが欠けている。注意して他の所も比べてみると見つかった。些細なことであるが復刻というのも微妙なものだ。
芥子園画伝の人物屋宇譜からの模写だ。山水図の点景としての人物なので特徴を捉えてそれらしく見えればよいというものであり略画とも言える。 このページは、水に足を浸し涼んでいる人と網を打ってる漁師に、何かわからないが籠を水中に押し込んでいる人が描かれていた。 籠を操っている人は水辺でズボンというようなものが濡れるせいだろう脱いでいてお尻が丸出しになっている。ただ見ているときには気づかなかったが、ここを写すときに、えっ裸だ。となった。 気張って見ているようでも実はほとんど見ていない。ということですね。
MWSの教育用プレパラートは場所によっては密集しているのもある。このようなのを見ると微生物って目には見えないが沢山いるんだなぁというのが実感できるように思うのだ。金魚鉢についてる水垢のようなものを生物顕微鏡でみると原生動物が結構見つかる。暗視野にするとさらに小さい細菌が物凄い数でうごめいているのがわかる。人間の体だって表面から内部まで微生物だらけだそうだ。しかも悪さをするのだけでなく役に立っているのもいるそうで、善玉菌をいかに我が子に受け継がせるか苦心している母親もいるという。今や除菌グッズが幅を利かせている世ではあるが、やりすぎるとよろしくないことになるのかもしれない。
今日から春の新作家展である。画像はその出品作だ。銀座の大きな画廊で開催だが会員だけのこじんまりとした会で人混みになることはないものの往復の感染の危険性もあるわけなので案内状は一枚も出さずじまいだ。早く収まってもらいたいものである。 ベニヤ板に水性塗料で下地をつくり墨で描き上げる絵も三作目になった。油と違って乾くのを待つ時間は必要ないので毎日描き続けられる。重量感をだすのは難しいがそんなモチーフでないし自分にはあっているのか描きやすい。 新作家に参加したとき抽象を描かれていた重鎮の方に作品を見てもらったが、「このような絵は分からん。」と言われ、うーというような顔をしていたのだろう。間をおいて「もっとリアルで良いのではないか。」と言われた。 ずっと気になっていたが好転することなくほとんどあきらめていた。画材を墨に変えたのがよい刺激になっているのかリアルさが出てきたような気がする。この絵で何を表現したいのと問われて明確に答えることはできないが横顔の男性が目の前に居るかのように感じていただければなあと願うのである。
昔を懐かしんで珪藻観察を始めた頃の画像を見直した。そのうちの一枚だ。MWSの教育用プレパラートのE−P1(沼)で、これが一番見ていると思う。隅から隅までといった感じで編針珪藻も見つけた。このプレパラートを買ってそこまで見た人はいないだろうと思えるほどだが、制作者の奥氏は編針珪藻が入っているのを確認されていた。作り上げたものを徹底して確認されているようだ。想像するに頭の中の膨大なデータベースと並外れた注意力で短時間でできているのだろう。のんびりやっていたら「いくら時間があっても足りぁしねえゃ・・」だろう。 明視野での検鏡しか出来ていなかったのだがコンデンサーに厚紙で作ったアタッチメントをつけて編斜照明ができるようになって撮ったのが今日の画像だ。影が一方向にでるので立体感がでてきて実に嬉しかった。色々やっているうちに珪藻の表を見ているのか裏を見ているか訳が分からなくなったのも懐かしい思い出だ。
「芥子園画伝」の樹譜の模写とともに楷行草総覧の臨書も熱心にやっている。今日の画像は楷書とその草書を取り出して並べたものだ。若い頃に二千五百字をまとめた書籍を求めて臨書を始めたのだが挫折していた。今また筆墨の世界に目覚めて昔求めた本を取り出して来た訳だ。 真筆と側筆の違いも知らなかったノータリンでも、ネットでいろいろ教わることにより独りよがりではない書き方にはなっていると思うが、いつかはお手本のようにキチンと書けるようになりたいものである。 五百文字を楷書から草書の変化で五千字程度臨書しているのだが、爺の手習いで、空では一字も書けないし読めもしないのにため息が出る。 江戸時代は版木による出版が盛んだった。黄表紙とかの庶民向けのようなものも多いようで、絵入りではあったろうが、ひらかなと草書体で綴られているのを造作もなく読んでいたと思うと昔の人はすごいと言うしかないですね。
ヒメバチの一種だと思うが体長1.1センチメートルで去年の4月に捕まえたやつだ。今になってスケッチした。 ハチの胸部は固い外骨格で一見すると固着しているように見える。それでよいような気もするが動かないとまずいことになる。不思議だが翅を動かしているのは外骨格が動いているからだそうだ。解剖するとわかるが、胸部内には縦横に太い筋肉がぎっしり詰まっている。この筋肉の収縮をコントロールして巧みな飛行をするわけだ。 小形のハチは外骨格表面の彫刻が興味深い。このハチは派手さはないものの小楯板あたりは窪みや縁のめくりなど表現するのに苦労する変化があって楽しめた。
MWSのバルバドス放散虫ニセ散布スライドから、対物レンズ40Xの暗視野で撮影して深度合成したものの二枚目だ。球形の奴だと思うのだがひしゃげたものにしかならない。それでも下を隠して上半分だけを見るとかなり球形に見えなくもない。 手製の暗視野用アタッチメントでは光を四方から均等に当たるように調整するのは難しい。なのでこのように光の当たり方に方向性を感じるものしか出来ていないのだが、これが均等にできたら大分違う絵になるような気もする。試みてはいるがいっかな成功しないのである。
MWSのバルバドス放散虫ニセ散布スライドから、対物レンズ40Xの暗視野で撮影して深度合成したものだ。 40Xともなるとピントの合う位置はわずかで全体像はつかみづらい。深度合成も思うようには成功しないが多少なりとも立体を感じられるのが救いである。 放散虫は10Xだと適度の大きさで形もよく分かりキラキラと輝いて見やすい。40Xで見るのは迫力はあるが一部分以外はボケボケで想像力を必要とする。大変だがそれも楽しみなのである。
6日に撮影したものだが、桜が咲いていた。早咲きの桜でも暖冬のせいだろうかとも思うが早すぎるような気もする。この手前では株立ちのケヤキの一本が下の方で折れている。何日か前の強風のせいだろう。 地震や台風など自然災害も多いしコロナウィルスの騒ぎも収まらない。一国の総理が国会で野党の質問者を嘘つき呼ばわりする異常な世の中だが、平安末期は地震、火事、飢饉、疾病、盗賊の横行で末世と呼ばれ宗教活動も盛んだった。今は末世なのだろうか。 マスコミは地球温暖化で騒がしいが、今の地球はまだ氷河時代の真っ只中で間氷期で暖かいに過ぎずこれから寒冷化するという説もあるらしい。そうなると寒さで飢饉になってほんとに末世と言えるのが来るかもしれない。早咲きの桜と折れたケヤキを見たら変なことを考えてしまった。
ネットオークションで芥子園を検索したらいろいろ出ていた。さすがに当初の康熙年ではなく光緒年や民国でも早い年代の版であったが古いものがあるのに驚いた。 日本のものだが明治初期の木版多色刷りの康熙版に基づいたようなのもあって競り合って高額で落札されていた。 左画像の上は、競争相手は一人もいないで落札できた1979年重刷の中華書房香港分局から出版されたものである。表紙の画像しか出ていなくてどの程度の印刷か判断はつかなくて不安はあったが安価なので応札した。後半の作例など見たかったからなのであるが。 一冊丸ごとコピーして現代の様式に整えページと解説を付けたようである。画像の下は小生の持っている翻訳書であるが縮尺を合わせるとピッタリ重なるみたいで元の版は同じようだ。原寸大の復刻版のようで絵が大きくなったのはよいが線が太くなって一部細部がつぶれていたりして不満もあるが全体像がわかってうれしい限りだ。
芥子園画伝樹譜から雲林樹法 小生の持っているのは1985年に出版された翻訳書で、名画の作例は載せていない簡易版だが書かれている文章は翻訳文があるので日本語で読める。以下画像の文の訳である。 「雲林は側筆を多く用いて筆に軽快さや重厚さを見せているが、円筆(直筆)は用いなかった。側筆の長所は気高くすっきりしたところにある。宋代の院体画風では、みな直筆の皴を用いるが、北苑だけは多少異なった描き方をしている。雲林、黄子久、王叔明らはみな北苑を祖としており、側筆を用いている。」 もっとも中国絵画に造詣がないと画家の名前を見ても時代も画風も全く分からないが、この本には画家の解説と小さいながら作例もついている。入門用にはよくできた本なのである。
MWSのバルバドス放散虫ニセ散布スライドから、対物レンズ10Xの暗視野で撮影したものだ。1月10日に掲載したものより詰まっている感はする。背景が黒なのも影響しているかもしれない。 この連中は動物だから何かエサを取って海中を漂いついには死んで海底に降り積もるわけだ。骨格は珪酸だから溶けてなくなることはない。塵も積もれば山となるではないが珪藻土やチャートの地層となって人の目にも触れることになるそうだから地球の歴史は悠久で壮大なものだ。人類の歩いてきた時間などたかがしれていると思うと日頃のちまちましたことがあほらしくなってくる。
喜多川歌麿の「画本虫撰(えほんむしえらみ)」模写の第五弾だ。 きりぎりす さのみなは鳴音なたてそきりぎりす ふか入壁も耳のある世 倉部行澄 (くらべのゆきずみ) 蝉 うき人のこころは蝉に似たりけり 声ばかりしてすがたみせねば 三輪杉門 (みわのすぎかど) 洋画の描き方でずっとやってきたわけだが、この頃筆墨の世界にひかれる。この絵は木版画で歌麿の線の調子そのものではないが模写していると艶めかしくも優美な線なのが伝わって来る。花などと同じく昆虫も写生を沢山していたのか、この冊子のために写生したのか判断もつかないが蝉ときりぎりすの描写は素晴らしく科学的てもある。生半可な観察ではないのである。
この頃熱心にやっていることは「芥子園画伝」の樹譜の模写である。文人画の手引書みたいなもので、一本の木で落葉したもの、葉を茂らしたもの、木々を組み合わせたものなど具体的な実例を多数収めてある。また、著名な画家の手法を取り入れているので作品を鑑賞する際の強力な手助けにもなる。漠然と見ていてもちっとも身につかないので模写するわけだ。 図は范寛(北宋11世紀)の画法でごつごつした雄渾なものである。有名な「渓山行旅図」の下段には裸木が多数ありこの通りのものはないが確かに感じは出ている。この画伝は優れものの書冊なのです。 のんびりと硯で墨を磨り、気持ちを落ち着けて和紙に筆を落とし元図に従って筆を動かすというのもなかなか良いものだ。だが現実は厳しい。太さや曲がり方の変化も多いのに筆の保持もままならず、とてもではないが忠実には写せたものではない。なのであるが、模写の強みでよく描けているように見えるはずだ。元図と並べると馬脚が現れるが持っている人はまずないので安心して掲載できるわけだ。
MWSの「本日の画像」では、バルバドス放散虫ニセ散布スライドの表示がしてあって初めはなぜニセなのか意味が分からなかったが、散布スライドに見えるけれども実はばらまいたものを整理し空いたところには単品を姿よく置いたりと手のかかっているのをニセと表現されていたのだった。 肉眼で見る美しさは全く出ていないが対物レンズ10Xで撮影したものだ。4Xだとビッシリ詰まっている感じがあるが10Xだと賑やかさはあるもののビッシリ感はなくなり一つ一つの特徴が印象深くなってくる。面白いことである。
燕文貴の「江山楼観図」の三回目の模写で山岳地帯に入り込んで険しい山中に楼閣が聳えている図だ。 元の図は日本でいえば平安時代のものなので不鮮明なところも多い。なにか分からないままに濃淡を写していると、どうも樹木が茂っているところらしいと気づかさせられるし山岳の中途に細い平坦の所があるのも分かり、広すぎるが楼閣への道を暗示しているような気もする。 模写して初めて気づいたほどで、ありていに言うとなにが描かれているのかよくわからない図柄だろう。 しかし、楽しく模写できたし、東洋画の空間処理もすこしは身についてくるだろうしで愛着のある模写なのだ。
2020.06.30
前回のコメツブケイソウ(コッコネイス)は反対側の殻面には縦溝があるはずなので探したのがこの方なのです。深度合成しているので全体像が何となく感じられないでしょうか。
中心と縁が一番高くて内に窪んでいるようです。胞紋も細かくてコメツブケイソウの仲間としてちょっと変わった方のように思えます。沿岸域で海藻とかに付着しているのではないかと想像しますが、波が荒くても平気な方のようにも思われます。
2020.06.25
MWS珪藻プレパラートKMR_01(沿岸)からのコメツブケイソウ(コッコネイス)だ。珪藻は普通外縁から盛り上がっているようだが、この方は内側に窪んでいらっしゃる。少しのピント移動で胞紋の形や位置が変化して本来の姿をなかなか見せていただけないお方なのです。ですからこのカットは適切なものかそうでないのか悩ましい限りではありますがじっくりと見て元の形を思い浮かべるのに使うわけなのです。
2020.06.20
MWS珪藻プレパラートARK_01(干潟)からのコアミケイソウだ。本家の6月8日の「あれこれ」に正六角形内にさらに細かい胞紋をもつコアミケイソウが載っている。素人とプロの差は歴然としている実に整然とした幾何学的な画像なのだが、それは横に置いといて小生のはよくよく見ると六角形が五角形になっているところもあり大きさも不揃いで正しい成長をしてこなかったような個体とも考えられる。お手本と見比べているとそんなことを思い浮かべた。良いお手本は恵みをもたらすのでしょう。
2020.06.05
外殻が珪酸と炭酸カルシュウムのちがいはあるものの単細胞植物プランクトンの珪藻は中生代からだから古生代からの円石藻は先輩だ。ともに厳しい地球史を生き抜きかつ栄えている優れものたちだが外骨格があることがそれを支えている様な気がするがどうなのであろうか。様々な形に変化していったことは様々な環境に適合していった結果だとも言えようか。
2020.05.30
円石藻は直径0.01mm程度で生物顕微鏡では詳細な姿は無理、電子顕微鏡の世界である。今はネットを検索すると沢山ヒットする。そのうちのいくつかを組み合わせて模写したものだ。単細胞の植物プランクトンで外殻に炭酸カルシュウムの鎧をまとっているという驚くべき生き物だ。中高の円形または楕円体をまんべんなくまとっているのが基本形のようだ。この楕円体が種によって変化極まりないというものらしい。中には幾何学図形そのものもいる。壊れたのがあったが意外と厚いのが分かる。穴あき楕円体のは隙間だらけで物質の出し入れは自在だが、五角形を組み合わせたやつはつなぎ目の隙間だけだ。それぞれの生活の仕方に適応しているのだろうが興味深い。
古生代の終わりころに出現して海底に降り積もった遺体が地層となって残っている。有名なのはドーバー海峡の白亜の崖だ。人類は地球は我がものと大きな顔をしているが地球の歴史上は一瞬の出来事に過ぎないのを悟らせる出来事だ。日々あくせくと思い悩む生き方は切実ではあるがなんとつまらないことか。
2020.05.25
数日前にMWS「本日の画像」で円石藻の大発生で海がエメラルドグリーンになっている記載があった。よくサイクリングしているところで海を見下ろす場所がある。17日に綺麗なエメラルドグリーンをしていたので撮影した。その時は円石藻のせいだとは知らなかったのだが珍しい事件に巡り合っていたのだった。白い楕円の中は24日の様子だ。海岸沿いはまだ残っているが他は青くなっていた。近くの米神港の様子を見に降りてみたがコロナで立ち入り禁止の柵がしてある。いつもは堤防に釣り人が沢山いるのだが人気はなく円石藻もあまり残ってはいないようだった。17日の写真には岩の上に釣り人がいる。初めて見たが港が立ち入り禁止なのでこんな危ないところで釣っていたのだろう。
2020.05.20
MWS珪藻プレパラートKMR_01(沿岸)から円心目の仲間だ。散らしのプレパラートならではだが斜めに封入されている。ピントを上部からゆっくりと下ろしていくと鮮明な部分が移動してゆく。移動する先が下に位置しているわけだ。下面を通り過ぎるか過ぎないかぐらいの微妙な位置てはまだ形になっている。右側の画像がそれである。常識で考えると赤で描いた断面図を見ているようにしか思えない。訳は分からないのだがこの特性はしっかり捕まえていないと珪藻の形を見間違う恐れがあるのだ。
2020.05.15
MWS珪藻プレパラートKMR_01(沿岸)からカザグルマケイソウ (Actinoptychus)の輪帯照明による画像だ。海岸近くを漂っている珪藻だと思う。名前のごとく上下に三枚づつ六枚の風車を持っているわけだ。ピント位置は左から右に下がってゆく。左側はまだ珪藻の位置に達していないが上面の構造が垣間見れる。その横はもっと下にあるのだが上にあるように見えるはずだ。右側は珪藻本体の位置を通り越しているのだがしっかりと形になっているという不思議さなのだ。生物顕微鏡はほんとに興味深い。
2020.05.10
MWS放散虫プレパラート特注品J482からの深度合成したものだ。珪藻よりかなり大きいし形も大振りで。浮遊性のものだろうがすごく立体的だ。動物性プランクトンだし単に漂ってばかりいるとも思えない。上から飲み込んだ海水を下から噴出して素早く移動し左右の腕で進行方向をコントロールする。と想像をたくましくしてしまうが、これは骨格で回りは変化に富んでいる有機体で囲まれている可能性もあるらしいしが事実はもっと奇妙かもしれない。
2020.05.05
MWS珪藻プレパラートASK_01(池)からネイディウム(ハスフネケイソウ)と思われるもの。
このプレパラートはいろんな種類がいて楽しめる。よく覗いていたものだ。あれこれに載せるために昨日撮影して深度合成した。ピンぼけ部分がなくなるものの荒れた感じはご愛敬だ。MWSプレパラートには珍しく微小小石がまんべんなくばらまいてある。ここにもひっついているのがいるがそれもまた楽しの奴なのだ。
2020.04.30
コロナウィルス退治は自宅でじっとしているのが一番らしいが、習字をするのは精神を落ち着かせるのもあって効果的かもしれない。
それだからというわけでもないが、江守賢治著「常用漢字など二千五百字 楷行草総覧」の臨書を続けている。見開き二ページに十二字が表示されている。それを半紙一枚に写していくわけだ。写し終えて草書のおさらいに最下段の草書体を抜き書きして末尾二行にまとめて一枚が終わる。これが頭の中に残ってくれると嬉しいのだが悲しいことに全く残らない。ただ沢山臨書していると筆の運びにこの先生の癖のようなものを感じるようになってきた。臨書の手本には名だたるものがいくつもあるそうだからこれが正解というのはないのだろう。書に関心はなく別世界であったが奥深さを感じ始めたわけだ。
2020.04.25
MWS放散虫プレパラート特注品J482からの画像だ。
これもあまり壊れていないと思う。やはり角状のものが欠けているのだろうが長さが分からないもののなんとなくどんな具合についているのかは想像できそうだ。
この画像だと表面は平らなように見えるが実際は丸いと思う。中央の丸は大きいが離れるにしたがって小さくなり、また、ひしゃげてくる。実際は同じ大きさだとすると上に凸の曲面上に並んでいるはずだ。
どうしたら丸く写せるのか見当もつかないで途方に暮れているところだ。
2020.04.20
MWS放散虫プレパラート特注品J482の一部が今日の画像だ。壊れたもの主体で注文したのであるが、この個体はあまり壊れていないと思う。角状のものが欠けているくらいではないだろうか。深度合成した画像で顕微鏡でこのように見えているわけではないが、これをよく見てピントをずらしながら検鏡すると見逃したことが見えてくるかもしれない。
断面を見ながら全体像を思い浮かべるのが放散虫を検鏡する楽しみなのだ。
2020.04.15
MWSのバルバドス放散虫ニセ散布スライドから。
暖かくなってきて春の行楽シーズンなのに今年はそんな悠長なことをしていられなくなった。微生物を気にしながら生活することになるとは思いもしなかったがコロナウィルスの跋扈は目前に迫っている恐怖を感じる。
コロナウィルスよりはるかに大きいが微生物の仲間のバルバドス放散虫でも眺めていよう。
2020.04.10
ギロシグマ(エスガタケイソウ)の電子顕微鏡写真はネットにいくつか出ている。この種ピッタリのものは見当たらなかったが似たようなものがあったので模写したのが今日の画像だ。表面と裏面のものがあって随分違うのが理解できる。
表面は平滑で条線や胞紋は非常に細い反面、裏面は凹凸も多く胞紋は丸い穴になっており条線は形状も異なる。
断面はどうなっているかを想像したのがA,B断面図だ。中央とその脇の所で考えた。
これも想像だが表面が細いスリットになっているのはこの隙間を通り抜けられるものだけが必要な物質でそれ以外は拒否しているのだろう。身体の強度を確保するには厚みが必要だが厚くすると必要物質が取り込みにくくなる。その解決法として厚い骨格の表面にスリットの開いたごく薄い板状のものを張り付けた二重構造になっているのではなかろうか。
MWSの教育用プレパラートのE−P1(沼)でたった一個しかなくコントラストも低くてあるかないかの微妙なものだったが被殻の極めて薄いギロシグマを見つけたことがある。たまたま表面が剥がれ落ちたものと考えてもよいのではなかろうか。
2020.04.05
顕微鏡のピント位置は微妙なものだ。前回は条線にこだわって、被殻の中にわずかに入った位置だと思うが割れ目を感じさせる画像を選んだ。表面は細い線だが内部は広がっているのではっきりと写るのである。今回は表面がどう見えているのかにこだわったものだ。もう少し上げると平滑さが増すが中央部の条線端部のへこみが感じられるようなものを選んだ。
MWSが撮影すると、条線もしっかりと解像し、きれいな線が見えているはずだ。小生の実力ははるかに及ばないのでとてもできないのであるが、目を凝らしてみていると脇の方にうっすらと線が見えているような気がする。頑張りどころなんだろう。
2020.03.30
MWSのDL-TESTプレパラートからギロシグマ(エスガタケイソウ)の中心部だ。
検体は申し分ないが、なんとも弱弱しい画像で頼りないこと甚だしいのではあるが、胞紋は一つ一つ確認できるし中央の条線もそれらしく見えているので、捨てたものではないのかなと自ら慰めているところだ。
顕微鏡を使いこなすと対物レンズが安価でもおもちゃでなければ素晴らしい画像を得ることができる実例がMWSの「本日の画像」2020年3月28日分に出ている。良い見本はそれに近づけようと努力すればよい結果をもたらすありがたいものなのである。結果はともかくとして。
2020.03.25
芥子園画伝第三集の草虫花卉譜の芍薬のページである。
@は新藤武弘訳日貿出版社のもので画像はやや小さいが線はきれいに印刷されている。Aは中華書房香港分局の出版で線も太くてかすれているようなところも多くて不満の出るものであった。Bはそのカスレ部分を@を参照しながら鉛筆で補正したものだ。随分見やすくなった。
赤丸のところは@のほうが欠けている。注意して他の所も比べてみると見つかった。些細なことであるが復刻というのも微妙なものだ。
2020.03.20
芥子園画伝の人物屋宇譜からの模写だ。山水図の点景としての人物なので特徴を捉えてそれらしく見えればよいというものであり略画とも言える。
このページは、水に足を浸し涼んでいる人と網を打ってる漁師に、何かわからないが籠を水中に押し込んでいる人が描かれていた。
籠を操っている人は水辺でズボンというようなものが濡れるせいだろう脱いでいてお尻が丸出しになっている。ただ見ているときには気づかなかったが、ここを写すときに、えっ裸だ。となった。
気張って見ているようでも実はほとんど見ていない。ということですね。
2020.03.15
MWSの教育用プレパラートは場所によっては密集しているのもある。このようなのを見ると微生物って目には見えないが沢山いるんだなぁというのが実感できるように思うのだ。金魚鉢についてる水垢のようなものを生物顕微鏡でみると原生動物が結構見つかる。暗視野にするとさらに小さい細菌が物凄い数でうごめいているのがわかる。人間の体だって表面から内部まで微生物だらけだそうだ。しかも悪さをするのだけでなく役に立っているのもいるそうで、善玉菌をいかに我が子に受け継がせるか苦心している母親もいるという。今や除菌グッズが幅を利かせている世ではあるが、やりすぎるとよろしくないことになるのかもしれない。
2020.03.10
今日から春の新作家展である。画像はその出品作だ。銀座の大きな画廊で開催だが会員だけのこじんまりとした会で人混みになることはないものの往復の感染の危険性もあるわけなので案内状は一枚も出さずじまいだ。早く収まってもらいたいものである。
ベニヤ板に水性塗料で下地をつくり墨で描き上げる絵も三作目になった。油と違って乾くのを待つ時間は必要ないので毎日描き続けられる。重量感をだすのは難しいがそんなモチーフでないし自分にはあっているのか描きやすい。
新作家に参加したとき抽象を描かれていた重鎮の方に作品を見てもらったが、「このような絵は分からん。」と言われ、うーというような顔をしていたのだろう。間をおいて「もっとリアルで良いのではないか。」と言われた。
ずっと気になっていたが好転することなくほとんどあきらめていた。画材を墨に変えたのがよい刺激になっているのかリアルさが出てきたような気がする。この絵で何を表現したいのと問われて明確に答えることはできないが横顔の男性が目の前に居るかのように感じていただければなあと願うのである。
2020.03.05
昔を懐かしんで珪藻観察を始めた頃の画像を見直した。そのうちの一枚だ。MWSの教育用プレパラートのE−P1(沼)で、これが一番見ていると思う。隅から隅までといった感じで編針珪藻も見つけた。このプレパラートを買ってそこまで見た人はいないだろうと思えるほどだが、制作者の奥氏は編針珪藻が入っているのを確認されていた。作り上げたものを徹底して確認されているようだ。想像するに頭の中の膨大なデータベースと並外れた注意力で短時間でできているのだろう。のんびりやっていたら「いくら時間があっても足りぁしねえゃ・・」だろう。
明視野での検鏡しか出来ていなかったのだがコンデンサーに厚紙で作ったアタッチメントをつけて編斜照明ができるようになって撮ったのが今日の画像だ。影が一方向にでるので立体感がでてきて実に嬉しかった。色々やっているうちに珪藻の表を見ているのか裏を見ているか訳が分からなくなったのも懐かしい思い出だ。
2020.03.01
「芥子園画伝」の樹譜の模写とともに楷行草総覧の臨書も熱心にやっている。今日の画像は楷書とその草書を取り出して並べたものだ。
若い頃に二千五百字をまとめた書籍を求めて臨書を始めたのだが挫折していた。今また筆墨の世界に目覚めて昔求めた本を取り出して来た訳だ。
真筆と側筆の違いも知らなかったノータリンでも、ネットでいろいろ教わることにより独りよがりではない書き方にはなっていると思うが、いつかはお手本のようにキチンと書けるようになりたいものである。
五百文字を楷書から草書の変化で五千字程度臨書しているのだが、爺の手習いで、空では一字も書けないし読めもしないのにため息が出る。
江戸時代は版木による出版が盛んだった。黄表紙とかの庶民向けのようなものも多いようで、絵入りではあったろうが、ひらかなと草書体で綴られているのを造作もなく読んでいたと思うと昔の人はすごいと言うしかないですね。
2020.02.25
ヒメバチの一種だと思うが体長1.1センチメートルで去年の4月に捕まえたやつだ。今になってスケッチした。
ハチの胸部は固い外骨格で一見すると固着しているように見える。それでよいような気もするが動かないとまずいことになる。不思議だが翅を動かしているのは外骨格が動いているからだそうだ。解剖するとわかるが、胸部内には縦横に太い筋肉がぎっしり詰まっている。この筋肉の収縮をコントロールして巧みな飛行をするわけだ。
小形のハチは外骨格表面の彫刻が興味深い。このハチは派手さはないものの小楯板あたりは窪みや縁のめくりなど表現するのに苦労する変化があって楽しめた。
2020.02.20
MWSのバルバドス放散虫ニセ散布スライドから、対物レンズ40Xの暗視野で撮影して深度合成したものの二枚目だ。球形の奴だと思うのだがひしゃげたものにしかならない。それでも下を隠して上半分だけを見るとかなり球形に見えなくもない。
手製の暗視野用アタッチメントでは光を四方から均等に当たるように調整するのは難しい。なのでこのように光の当たり方に方向性を感じるものしか出来ていないのだが、これが均等にできたら大分違う絵になるような気もする。試みてはいるがいっかな成功しないのである。
2020.02.15
MWSのバルバドス放散虫ニセ散布スライドから、対物レンズ40Xの暗視野で撮影して深度合成したものだ。
40Xともなるとピントの合う位置はわずかで全体像はつかみづらい。深度合成も思うようには成功しないが多少なりとも立体を感じられるのが救いである。
放散虫は10Xだと適度の大きさで形もよく分かりキラキラと輝いて見やすい。40Xで見るのは迫力はあるが一部分以外はボケボケで想像力を必要とする。大変だがそれも楽しみなのである。
2020.02.10
6日に撮影したものだが、桜が咲いていた。早咲きの桜でも暖冬のせいだろうかとも思うが早すぎるような気もする。この手前では株立ちのケヤキの一本が下の方で折れている。何日か前の強風のせいだろう。
地震や台風など自然災害も多いしコロナウィルスの騒ぎも収まらない。一国の総理が国会で野党の質問者を嘘つき呼ばわりする異常な世の中だが、平安末期は地震、火事、飢饉、疾病、盗賊の横行で末世と呼ばれ宗教活動も盛んだった。今は末世なのだろうか。
マスコミは地球温暖化で騒がしいが、今の地球はまだ氷河時代の真っ只中で間氷期で暖かいに過ぎずこれから寒冷化するという説もあるらしい。そうなると寒さで飢饉になってほんとに末世と言えるのが来るかもしれない。早咲きの桜と折れたケヤキを見たら変なことを考えてしまった。
2020.02.05
ネットオークションで芥子園を検索したらいろいろ出ていた。さすがに当初の康熙年ではなく光緒年や民国でも早い年代の版であったが古いものがあるのに驚いた。
日本のものだが明治初期の木版多色刷りの康熙版に基づいたようなのもあって競り合って高額で落札されていた。
左画像の上は、競争相手は一人もいないで落札できた1979年重刷の中華書房香港分局から出版されたものである。表紙の画像しか出ていなくてどの程度の印刷か判断はつかなくて不安はあったが安価なので応札した。後半の作例など見たかったからなのであるが。
一冊丸ごとコピーして現代の様式に整えページと解説を付けたようである。画像の下は小生の持っている翻訳書であるが縮尺を合わせるとピッタリ重なるみたいで元の版は同じようだ。原寸大の復刻版のようで絵が大きくなったのはよいが線が太くなって一部細部がつぶれていたりして不満もあるが全体像がわかってうれしい限りだ。
2020.01.30
芥子園画伝樹譜から雲林樹法
小生の持っているのは1985年に出版された翻訳書で、名画の作例は載せていない簡易版だが書かれている文章は翻訳文があるので日本語で読める。以下画像の文の訳である。
「雲林は側筆を多く用いて筆に軽快さや重厚さを見せているが、円筆(直筆)は用いなかった。側筆の長所は気高くすっきりしたところにある。宋代の院体画風では、みな直筆の皴を用いるが、北苑だけは多少異なった描き方をしている。雲林、黄子久、王叔明らはみな北苑を祖としており、側筆を用いている。」
もっとも中国絵画に造詣がないと画家の名前を見ても時代も画風も全く分からないが、この本には画家の解説と小さいながら作例もついている。入門用にはよくできた本なのである。
2020.01.25
MWSのバルバドス放散虫ニセ散布スライドから、対物レンズ10Xの暗視野で撮影したものだ。1月10日に掲載したものより詰まっている感はする。背景が黒なのも影響しているかもしれない。
この連中は動物だから何かエサを取って海中を漂いついには死んで海底に降り積もるわけだ。骨格は珪酸だから溶けてなくなることはない。塵も積もれば山となるではないが珪藻土やチャートの地層となって人の目にも触れることになるそうだから地球の歴史は悠久で壮大なものだ。人類の歩いてきた時間などたかがしれていると思うと日頃のちまちましたことがあほらしくなってくる。
2020.01.20
喜多川歌麿の「画本虫撰(えほんむしえらみ)」模写の第五弾だ。
きりぎりす さのみなは鳴音なたてそきりぎりす ふか入壁も耳のある世 倉部行澄 (くらべのゆきずみ)
蝉 うき人のこころは蝉に似たりけり 声ばかりしてすがたみせねば 三輪杉門 (みわのすぎかど)
洋画の描き方でずっとやってきたわけだが、この頃筆墨の世界にひかれる。この絵は木版画で歌麿の線の調子そのものではないが模写していると艶めかしくも優美な線なのが伝わって来る。花などと同じく昆虫も写生を沢山していたのか、この冊子のために写生したのか判断もつかないが蝉ときりぎりすの描写は素晴らしく科学的てもある。生半可な観察ではないのである。
2020.01.15
この頃熱心にやっていることは「芥子園画伝」の樹譜の模写である。文人画の手引書みたいなもので、一本の木で落葉したもの、葉を茂らしたもの、木々を組み合わせたものなど具体的な実例を多数収めてある。また、著名な画家の手法を取り入れているので作品を鑑賞する際の強力な手助けにもなる。漠然と見ていてもちっとも身につかないので模写するわけだ。
図は范寛(北宋11世紀)の画法でごつごつした雄渾なものである。有名な「渓山行旅図」の下段には裸木が多数ありこの通りのものはないが確かに感じは出ている。この画伝は優れものの書冊なのです。
のんびりと硯で墨を磨り、気持ちを落ち着けて和紙に筆を落とし元図に従って筆を動かすというのもなかなか良いものだ。だが現実は厳しい。太さや曲がり方の変化も多いのに筆の保持もままならず、とてもではないが忠実には写せたものではない。なのであるが、模写の強みでよく描けているように見えるはずだ。元図と並べると馬脚が現れるが持っている人はまずないので安心して掲載できるわけだ。
2020.01.10
MWSの「本日の画像」では、バルバドス放散虫ニセ散布スライドの表示がしてあって初めはなぜニセなのか意味が分からなかったが、散布スライドに見えるけれども実はばらまいたものを整理し空いたところには単品を姿よく置いたりと手のかかっているのをニセと表現されていたのだった。
肉眼で見る美しさは全く出ていないが対物レンズ10Xで撮影したものだ。4Xだとビッシリ詰まっている感じがあるが10Xだと賑やかさはあるもののビッシリ感はなくなり一つ一つの特徴が印象深くなってくる。面白いことである。
2020.01.05
燕文貴の「江山楼観図」の三回目の模写で山岳地帯に入り込んで険しい山中に楼閣が聳えている図だ。
元の図は日本でいえば平安時代のものなので不鮮明なところも多い。なにか分からないままに濃淡を写していると、どうも樹木が茂っているところらしいと気づかさせられるし山岳の中途に細い平坦の所があるのも分かり、広すぎるが楼閣への道を暗示しているような気もする。
模写して初めて気づいたほどで、ありていに言うとなにが描かれているのかよくわからない図柄だろう。
しかし、楽しく模写できたし、東洋画の空間処理もすこしは身についてくるだろうしで愛着のある模写なのだ。