「戦史」のシュラクーサイ攻防戦図です。古代ギリシャの戦いは城壁の築造合戦でもあるのがよくわかる図です。アテネ軍は丸型と方形の砦を築いて両側に城壁を伸ばしていきます。北側のトローギスまで伸ばせばシュラクーサイは外部との連絡が取れなくなってしまいます。そうはさせじと遮断壁を伸ばします。手に汗握る競争をしてシュラクーサイが勝利します。 意気揚々とシケリア遠征したアテネ軍でしたが、これ以降勝機をつかむことはなく、ついには殲滅されてしまいます。「おごれるものは久しからず。」になりました。
昭和41年に購った岩波文庫「戦史」中巻、訳者注の一ページです。 古代ギリシャのペロポネソス戦争(前431〜前404)に参加し、トラキアの戦いで失敗しアテネを追放されたトュキュディデスの手になるドキュメンタリーとも言える本です。 古代ギリシャは多数の都市国家があり、アテネが盟主のデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟が約30年戦いアテネの無条件降伏で終わります。 日本では縄文時代、中国は春秋時代末期ですが、この本はあまりにもリアルで現代の歴史書を読んでいる気がして凄い本だと記憶に刻まれました。 掲載の図は戦い中ごろの休戦中の各国の関係図です。きれいに両陣営に分かれるのではなく、付いたり離れたり複雑な関係をまとめてあります。最下段のラケダイモーンがスパルタです。 いくつかの同盟条約文も記載されていて、その一部の碑文が発掘されて内容が確認されているそうです。民議会でポリスの方針が決まる重要な発言も多く記載されていますが、敵国のもあり資料収集はどうしたのか不思議な気分になったのも思い出されます。
ほぼ30年前のスケッチですが場所は伊豆の浮島で、魚眼レンズの視点ですね、一度にこの様に眺めることは出来なかったはずです。 記憶が薄れていますが、入り江の両側の小さな岬が印象的だったので1枚に収めたのだと思います。日が暮れてゆき、入り江に一筋の光が当たっていたのに触発されたような気もします。
2016年に残滓という題名で描いた絵の元写真です。相模湾東部沿岸産の珪藻群で、MWS珪藻プレパラートKMR-01と名づけられています。10倍ぐらい広い範囲のごちゃごちゃしたところを撮影し、キャンバスの縦横比で絵にできると信じた場所を切り取ったわけです。奇妙ですが自分の美意識です。 初期の都会の絵とは大違いの世界ですが、モチーフにつまって当時盛んに観察してた珪藻を絵にしたわけです。 変遷を重ねた絵のモチーフを振り返ると、日常的に接している身の回りの物を描いていたようです。ただ顕微鏡の世界は極わずかの人たちのもので、突然違う絵を見せられた人はびっくりしたと思います。 初めは絵としてみてもらえるか不安でしたし、出来も良くなくて無理筋かなとも思いましたが、続けていると良くなっていったようです。「段々よくなっている。」と絵の先輩に言われたときは嬉しかったです。
最初の個展は神田の木の葉画廊で1996年にしました。写真はその時の様子です。友人がビデオに撮って編集しDVDで頂きました。大変な骨折りだったでしょうが貴重な記録で感謝に耐えません。 都会と車をF100とかF120で描き続けていたのをまとめて個展にしました。事前に会場を見ていた時に、作品の高さがそろっているので切れ目なく絵巻のように展示できないかと思いついて実行しました。本人は奇抜なのが好みなのでごく自然な選択ですが写真好きでもあるので、フィルムのべた焼きから連想したのかもしれません。しかし、見た人は驚いたと思います。
大江健三郎作品の題名も内容も全く覚えていないのですが、四国の山中に棲む少年が学校にある本を全部読んだと母親に報告します。それを聞いて母親はある本の何ページにどんなことが書いてあったかを言わせ、確かめると言って服を着替えて帯をキリリと締めて学校に出かけます。母親にとって本を読むとは中身もしっかり覚えてる事だったのです。子供もまたその教えに忠実だったわけです。これって小説でも大江本人の話ですよね。凡人にとって本は読んでいるのではなく単に眺めているだけなんだなと思いました。 偉人と凡人の差に愕然とし記憶に鋭く刺さったのでしょう。何かにつけて思い出します。 写真は新旧の真鶴駅です。引っ越した当初は世の勢いもあってタテ看板がずらりと並んでいました。それがだんだんと減っていき寂しいなと思っていましたが全くなくなっているのに気づいて撮ったのが下の写真です。柱も木造から鉄骨に変わっているし、ぼんくら頭はしょうがないなと反省しきりでした。
西湘バイパスで前を行く泉ナンバーの大型バスがブレーキを踏むと右側が点灯しません。車体をよく見ると流れ落ちた水垢が薄っすらと見えました。しかも、エンジンを吹かすと黒煙が出ます。古びたトラックが坂道をもうもうと黒煙をはいているのは過去の風景で珍しくもなかったのですが、今の世で観光バスが少しとは言え黒煙を出すとはショックでした。 画像は40歳で描いた絵ですが、観光バスの後ろをこんな感じでついていたのでした。
真鶴の散歩道で見かける空地です。通るたびにぜいたくな土地だなと思います。林を切り開いた住宅地の入口にあたる三角地なので売りずらくて残された土地のような気もしますが、地元の石で縁を固めているのが印象的で、ぜいたくだと思うわけです。 平屋の小住宅に菜園でのんびり過ごすには最適なような気もします。奥には作業小屋も建っていますし。
2001年8月27日、勝浦でのスケッチです。夏の終わりは3泊4日で夏合宿という写生旅行をしていたのですが、その時のスケッチです。写生地を決める前に小型のスケッチブックをもってぶらぶらしながらスケッチをとることをしていました。そのうちにここぞという場所に巡り合えるわけです。細長過ぎるのでこの場所で油絵は描きませんでしたが、仲間の一人がパステルで描いて仲間展に出品したのを見ました。描いてるところを見ていなかったので、作品を見たとき「オッ!」となりました。 そんな彼も認知症気味となって仲間たちの展覧会に参加できなくなりました。気持ちを若くしても身体がついてこなくなったのをつくづく感じます。
11月4日午後3時、真鶴の岩港にかかる岩大橋です。橋の上に見える白い点々は渋滞中の車です。連休最終日、都心への戻り車ですが真鶴道路に入ってすぐに渋滞する混みようです。ここから石橋の西湘バイパス入口まで渋滞は続きます。コロナのせいで久しく見なかった景色です。コロナは完全にはおさまっていないようですが日常生活は元に戻ったようです。なにか心が動きます。
35歳で描いた油絵「表慶館」です。F100二枚を使って描きました。1.6m×2.6mの大きさです。建物が透視図法的ですから別々では描けません。広いアトリエが必要ですが4.5畳の和室で描いたのでよくやったなと思います。一枚で懲りたのか満足したのか思い出せませんが、これ以降は一枚で描いています。 場所は、国立博物館の表慶館裏側です。建て替え前の法隆寺宝物館(木曜日開館)がひっそりと建っているばかりで人の行かない場所でしたが、飛鳥時代の須弥山石や石人(絵の左下)と朝鮮の石人二体(絵の右下があって、休みの日に行くので法隆寺宝物館はなかなか行けなかったですが、これらの石を見るのが楽しみでした。古代人の気分になっていたのでしょうね。
前回を多少拡大したものです。よく見ると継ぎ目がわかりますね。大作を制作している画家のアトリエは大きいです。画家の名前は忘れましたが、作品が大きくなるにつれてアトリエが大きくなっていったと発言しているのを見たことがあります。さすがプロと感嘆しました。 継ぎ目なく制作するのは大変です。小生はちと無理なので分割しているわけです。ただ描くのは図柄の不整合が出てくるので、隣り合ったところはつなげて描く必要があります。それが最低しなければならないことでしょうね。また、絵は全体のバランスが大事なので離れて見るのも大事です。大きな部屋が欲しい。・・・となるのです。
2.1m×1mの大きさです。B1のパネルに和紙を張って3枚つなぎで墨で描いています。芥子園画伝の模写をしていても、作品作りになるとごく普通の写生画の視点になってしまいます。 上野公園は巨木が多く手入れも良いので気持ちの良いところです。そんな中にのんびりと歩いている人々と覆いかぶさる様な木々を描きました。 ほとんど濃淡で描いていて人物だけが線画です。主役は木々で、人々は目立たぬようにあっさりと薄い線で描いていますが人数は多いので、見ていて楽しい気分にはなれるのではないかと思っているのですが、どうでしょうか。
芥子園画伝山石譜の模写です。 巒頭のいろいろ 主山の脈絡をすでに理解し、輪郭のとり方も習ったので、つぎは諸家の皴法のうち、誰のをはじめにするのがいいかとなると、まず董源は、皴法を集大成して老蒼(古めかしい)ので、これによって、筆を練習すべきである。この筆づかいに熟達さえしていれば、諸家の手法はむずかしくない。画を学ぶ場合、まず悪い筆癖がつくのを最も警戒するが、董源のこの法だけは手にその癖がつくほどよく習うべきで、かれに左袒しようというわけではない。 董源 董源の描く峰(尖った山頂)や巒(まるい山頂)は清らかで深みがあり、意趣は高尚である。批評家は、「かれの水墨画は王維に似て、着色は李思訓に似ている」と述べている。(水墨の)披麻皴を多く用いているが、着色は濃彩で古めかしい。元末四大家の黄公望、倪サンなども多く董源を学んでいる。黄公望は晩年に董源の手法を変えて独自の皴法をつくりあげたが、結局はその範囲を越えることはできなかった。訳は新藤武弘著「新訳芥子園画伝」による。
芥子園画伝山石譜の模写です。 平遠法 三遠法の最後は平遠法です。日本の景色でも見られるような景観もあって馴染みやすいと思います。 西洋画との違いは木の取り扱いです。ここぞというところの稜線に様式化された木々が並べられます。写真的な写実のやり方だと山肌全面に描かなければなりませんがそうしないわけです。 東洋画の作法というか約束事というか、目から入ってきた情報を脳内で変換して表現している高等なやり方だと思います。いろいろな試行錯誤があり積み重ねられて普遍性を持ち延々と受け継がれて現代でも共感されているのではないでしょうか。 この方法で現代の日本の風景を描ければと思って周りの海や山を見まわしているのですが途方に暮れるばかりです。
芥子園画伝山石譜の模写です。 深遠法 山の前からその後ろの奥深くを窺い見るのを「深遠」という深遠法の見本です。「玉女峰や明星峰(ともに陜西の華山の峰)が雲の青さに融けこみ、その翠に包まれた描写などは、まさに深遠である。」とありますが、まさに雲に閉ざされ滝が流れる景観です。しかも、人跡未踏ではなく岩肌を削り落とした道が左下に見られます。 画伝の模写は樹木から初めて人物、動物、家屋と続けました。今、山石で水墨画の中心に来た気がします。それだけに難しく根気もいります。
芥子園画伝山石譜の模写です。 山を描くための三遠 山には「三遠」がある。麓からその山頂を仰ぎ見るのを「高遠」といい、山の前からその後ろの奥深くを窺い見るのを「深遠」といい、近い山から遠い山を眺め見るのを「平遠」という。高遠は高く、抜きんでて験しく聳え立ち、深遠は山が幾重にも重なり、平遠は遙か遠くまで広々としている。三者は、いずれも画面全体の構図をいっている。 もしも、深くても遙かに遠いという感じがなければ浅くなり、平坦でも遙かな感じがなければ近くなり、高くても遙かな高さが表現されていなければ低くなってしまう。これは山水画で最も嫌うことで、それはあたかも低俗無教養の輩や側臣・奴僕などと対面しているようなもので、これでは山中の隠士ならばすぐにも庵を捨て書物を投げだして、鼻をつまんで逃げだしてしまう。ゆえに、もし遠景をさらに高く見せたいなら、泉(滝)を描き加えて高さを強調する。雁蕩山(浙江楽清県)の千尋の瀑布や、廬山(江西九江県)にある三段の飛泉は、まさにそうした高遠である。また、遠景をさらに深く見せたいなら、雲を描き加えて深さを表現すべきである。玉女峰や明星峰(ともに陜西の華山の峰)が雲の青さに融けこみ、その翠に包まれた描写などは、まさに深遠である。遠景をさらに平らかに見せたいなら、霞を描き加えて平らかさを描出する。華子岡(陜西終南山麓)の明るい細霧や愚公谷(山東臨陜県)の冷やかな霞などは、まさに平遠である。 訳は新藤武弘著「新訳芥子園画伝」による。
能登に大きな被害をもたらした雨は真鶴では大したことはなかったのですが、近くを散歩したらコンクリート製の土留めが倒れていました。 斜面を切り開いて、排水溝付きのコンクリート道にしているのですが、排水溝のコンクリート土留めが土圧に負けて倒れています。長方形で根入れもなく土圧はかからない前提のようなコンクリートの塊ですが、ローム質はかなり安定していますし、土留めの近くは高さもないので長い間無事だったようです。それでもじわじわ押されていて水をたっぷり含んだ時に限界に来たようです。大雨が降ると山崩れのニュースが目立つようになって国土が荒れているのに不安を感じる日々になりました。
真鶴の新興と言っても30年はたっている住宅地の石垣です。 コンクリート擁壁が一般的ですが、人の高さを超えていても石のしかも成形された信じられない擁壁があって、初めて見たときは不思議な気持ちにとらわれたものです。 真鶴は石の産地でもあるので、この土地の所有者は石材関係者で採算性など無視で自分の気に入ったように作ったのではないかと想像しているのですが、たいしたものだとかうらやましいとか雑念も生じます。
芥子園画伝山石譜の模写です。 李成 この図例は李成の<匡盧東浙図>の筆意である。書法でいう「筆線が細くて強いこと、神に通ず」という特色を李成は得ている。 訳は新藤武弘著「新訳芥子園画伝」による。 匡盧東浙図はネット検索で見つけられず現存しているかも不明です。真作を実見できるのは限られた人でしょうし、時代が古くなるほど残存する作品は貴重で、全く残っていない場合もあるでしょう。諸家の画風がどのように伝わっていったのか不思議に思えます。 中国人は自分たちが生み出した優れたものの伝承を大切にする精神があり、現物に限らず模写や再現できる方法をも含めて伝えてきている、しかも、数多くの戦乱と王朝交代があっても途絶えないのは凄い人たちだと思えてきます。
芥子園画伝山石譜の模写です。 李公麟 李公麟は顧ト之、陸探微、張僧よう、呉道玄および他の諸名家の画法を総合して自己のものとしたが、その作品の多くは着色を施していない。或る批評家は、「李公麟の山水画は李思訓に似ていて、瀟洒な感じは王維のようであり、まさに宋代絵画の第一とすべし」と述べている。 李公麟(北宋1049-1106)宋朝の高官であるが、晩年は故郷の龍眠山に隠居し、書画三昧を楽しんだ。六朝以来の白描画による人物・馬・山水を得意とした。 訳と来歴は新藤武弘著「新訳芥子園画伝」による。 昨年末に根津美術館で北宋書画精華展があり、李公麟の「孝経図巻」「五馬図巻」は目玉的な扱いで紹介されていました。オンラインの日時指定制でじっくり見れて至福の時間でした。また、燕文貴の「江山楼観図」が高さ30センチの巻物で、倍の大きさはあると思っていたので吃驚、大きさを錯覚していた程の細緻な描写にため息がでました。
角は除いて体長4センチのカブトムシです。普通の大きさのようですが丸々として立派です。さすがオスのカブトムシと拍手しちゃいます。自分にしても意味ないですが初めて捕まえたので嬉しさもひとしおです。
芥子園画伝山石譜・又主山自為環抱法の模写です。 主山が客峰を抱くもう一つの例 トレースとか測ったりしないで目測だけで模写しています。神経を酷使するので実は大変です。しかも原画のとおりではなく歪みが出てきます。 気合が入って勉強になると思ってやっていてしんどいものの終わって眺めて、ちょっと違うがなんとか見れるよなとなると良い気分になれます。
F0のキャンバスに余った油絵具で描いたものです。というかこすりつけたというべきでしょうか。 限られた色数で抽象的なものを試みていました。かなり前なので記憶がはっきりしませんが発想をつぎつぎと変えなければならないので結構しんどかったような、楽しみだったような気分だったような気がします。 これを見ると絵具を盛り上げて質感を強調するよりは削り落としてパレットナイフの動きやわずかに残った白を大事にしているのが分かりますが黒を削ったのはやり過ぎたように思いました。
ここのところ芥子園画伝の模写を熱心にしています。模写を重ねると稜線の変化の凄さに圧倒され、筆を自在に働かせなくてはいけないのを今更ながら思い知りました。 書道動画で中峰の大事さを解説していたのに啓発されて練習したのがこの画像です。直線を引くつもりでも波打ってしまう体たらくなのでまずは直線からです。これでも良くなっているのですがぶきっちょなのがありありですね。 中峰は水墨画では直筆と言うようですが、@筆を真っすぐに立てる。A筆を線の起点に下す。B少し尻を上げる。C線を引く。 どの方向でも筆の穂先が真ん中を通る中峰になり、筆に蓄えられた墨が毛細管現象で下に沈み盛り上がって厚みのある線ができる。なるほどです。 腕全体を動かすこともありますが、これも難しいですね。
芥子園画伝山石譜・又賓主朝揖法の模写です。 主山と客峰が挨拶する別の例 主山が客峰を抱く 前頁の例図は客峰を借りて連山の気象("気"の形勢)を表わしているが、ここでは特に主山みずからが周囲に客峰を抱きかかえている場合の例を挙げよう。主山は頭を高く上げ、腕を伸ばして周囲の景色を包みこんでいるので、外観はこれ以上煩雑にすることはない。つまり、主題がはっきり表わされているので、余分な装飾は必要としない。これを前頁の図と比較すると、前者は天子が正殿にお出でになり、多くの諸侯が参列して仰ぎ見ているようなものであるのに対し、この図は天子がひとり宮殿の奥深く、静かに政道を黙考しておられる感じである。王維はかってこの方法を用いて主山を描いた。
芥子園画伝山石譜・賓主朝揖法の模写です。 主山と客峰が挨拶する 王維は「山を描くには、まず気象("気"の形勢)を観察し、つぎに"気"の軽快さ、重々しさをはっきりさせ、主なる山と客なる山が挨拶をかわしているように配置し、群峰の偉容を描き連ねる。群峰が多過ぎると乱雑になり、少なすぎると散漫になる。」と述べている。 山には高いものも低いものもある。高い山はその下に血脈(つながり)があり、肩が張り、脚を開いてどっしりとしていて、これを低い山々が取巻き、連なりあって絶えることはない。これが高山であり、「孤立もせず、こみあうこともない」といえる。低い山は血脈が上にあり、頂上は平らで、尾根が上へ連なり、麓は大きく広がり、そこに丘や小山が膨れあがって入り組み、複雑なること測り知れない。これが浅山であり、「薄からず、隙間がない」といえる。 よって(この図では)、山の輪郭を明瞭にして、その脈絡の連なりを正確に示した。また、初心者が山の描き方の基本を理解しやすいようにと、皴を加えなかった。山を描くための皴法はいろいろあるが、すでに各大家の石の描き方を説明したなかに詳しく述べた。 訳は新藤武弘著「新訳芥子園画伝」からです。
体長5センチのノコギリクワガタです。 形を整えるときに左触角を損傷しましたが無傷の状態でしょう。散歩の終わり近く自宅まで5分も掛からないようなところで拾いました。その前にも同じ場所で拾いましたがクワガタの半分が欠けていて残念な思いでしたが、それが解消されたわけです。不思議な気がしますね。
芥子園画伝山石譜・王叔明皴法の模写です。 王蒙は、元末の画家で字は叔明、号は黄鶴山樵。黄公望・倪さん・呉鎮らと並ぶ元末四大家の一人だそうです。 ある本に「王蒙の絵の構成は繁茂の表現に勝り、良く変化し、多様である。その構図の奇なることは、史上まれに見るものである。」とあります。 模写しながら、この皴法は粘っこくて怪異なところもあるなと感じていましたが、上記のような絵にふさわしいと納得します。
散歩の途中で拾ったトンボです。オオシオカラトンボというようです。 このままの形で転がっていました。なので人間で言えば五体満足だと思い込んで、なんとも不思議な昆虫だと面白がって撮影したのです。 頭が取れているのに気づいたのはかなり立って、複眼の巨大な飛んでいるトンボを見てからです。 どうも加齢と難聴で脳みそが劣化しているようです。 釣銭を間違えたり、文を読んでいてなんでもない一行の意味がピンと来なくてしばらく考えて意味が取れたりすることが多々あります。 早とちりと判断の柔軟性がなくなっているようですね。年寄りは気が短いとか、じじいは偏屈だとかよく聞きますが、自分自身がそうなっているのでした。トホホです。
油絵から離れて大分たち絵の具に触ることもなくなっているのですが、盛んに描いていたころ絵が描けてもパレットにまだ絵の具がある時、無駄に捨てることもないので、0号のキャンバスにこすりつけていました。そんな中の一枚です。 油絵具は重厚かつ強靭で粘っこいです。堂々として存在感のあるものに適していると思います。厚く盛り上げもできますし、筆やバレットナイフの動きも明確です。キャンバスの上で絵の具を混ぜて求める色に突き当れた時はうれしさもひときわです。使いこなすのは大変で苦労は多いものの、よく出来たときの喜びも大きい素材だったと思います。 そんな気に入っていた素材から離れたのは、油を使うので準備や後片付けに手間がかかりますし、臭いも相当なもので、加齢とともにめんどくさくなってきたからでしょうね。
B1のパネルに和紙を張って墨で描いています。今年の春の上野公園で行き来している人々を撮影しましたが、それらの人々を組み合わせて絵にしました。 インバウンド復活で外人は多いですが、日本人も多くて賑やかでした。マスクの人も少なく平常モードに戻っていますね。
2.1m×1mの大きさです。B1のパネルに和紙を張って3枚つなぎで墨で描いています。墨はひじょうに薄く重ね塗りで濃くします。重ねが多いほど黒くなっていきます。それでもぼんやりとして柔らかい感じにとどまり強い印象は残りません。じっくり味わってください。という絵なのです。
真鶴は石の産地でもあるので、あちこちに石垣やかなり大きな石を組み上げて土留めにしているのが良く見られます。 画像は旧道沿いにある廃ミカン畑ですね。根こそぎにしているのでしょう、わずかに残されたミカンの木が左端に見えますが他は草が生い茂るばかりです。ゆったりとした勾配の場所で石の積み方も、くず石を集めてきて適当に積んだような気がします。肝心な根元は大きめの石で、上っ面はちいさな石で積んでいるように見えるので実はなかなか工夫されたものだったりというような気もします。
石光眞清(1868-1942)氏の著作3冊を図書館の戦記やドキュメンタリーの棚で発見、古い本ですが閉架に置いていたのを開架に持ち出したようです。固表紙で目につきました。 画像は上が眞清氏で下が弟の真臣氏です。日清戦争の出発前に撮影した写真のトレースです。 弟は砲兵中将まで進級していますが、本人は、日露戦争前にシベリアと満州で諜報活動をするのに軍籍を離れたので少佐どまりです。 日清戦争時は近衛師団歩兵第二連隊第三中隊の小隊長で中尉で初陣でしたが、後方の予備師団で戦闘はしないまま、割譲後の台湾に守備のため派遣されます。ところが台湾の清軍は降伏しなかったので、そこが初陣になりました。 木こり道を辿っていった基隆川沿いの村落に早朝攻め込みます。第二中隊は予備で待機し、まず第一中隊が、ついで第三中隊が攻撃開始です。作者は、突撃の機会をうかがいますが、目の先が暗くなり、耳までが遠くなって小銃の音さえが良く聞こえなくなったそうです。じっとしていられませんから、大声を出し一直線に村落に飛び込み中央の道路を駆け抜けついてきた部下を基隆川岸に展開させ射撃させたそうです。一時間の白兵戦で清軍が逃げて終了しました。 茫然としていたところで第二中隊長から声をかけられ、左手にお守りを右手に小銃の掃除棒を握りしめていたのに気づいたそうです。 初陣で動転し冷静さがなくなっていたのでしょうね。それでも、部下を失うことなく戦闘に加わり勝利を得ているので大したものです。動転したさまをしっかり述べているのにも感心しました。
若い頃描いたF8の油絵です。 背景の灰色の壁の暗部をバレットナイフで削り落として変化をつけるやり方をしているのは初心者のやり方ではありませんから、油絵の具の使い方も手探り状態だったのが、だんだんと身についてきたころでしょうね。 自宅の居間の角に飾っていた薔薇で、壁を灰色に変えたり、台の真ん中の花瓶もカーテンに近づけたりとか構成にも気を配っていたんだなぁと思います。
前回で箱根の写生会の話を書きましたが、その時の箱根は強羅での絵です。30号で現場で描くにはかなり大きいと思います。そこに魅力があるとは考えられない草草を描いているのですから作者はかなり変な人ですね。我がことながらそう思います。 人の目はその人の思いで強調したり省略したりして見ているようで、機械の目で撮った写真とは印象が違いますが、今は映像が周りに溢れていますから、何かを思い浮かべるときに自分の目で見たものよりも写真や動画でみたものの印象が先に出てくると思います。映像の形が真実になっている時代なのだと思います。 このような力足らずの写生画は時代遅れなのでしょうね。
小生の写生は現場主義です。ひたすら対象を見つめて正確に写し取ろうと努めます。思うようにはならないのが辛いところです。ここは真鶴の番場浦、江戸城築城に石を切り出したところだそうです。奥に切り立った面が見え、そこに行く階段や道筋がお判りいただけるでしょうか。 夏合宿に箱根に行ったことがあります。濃い緑ばかりで写生地が見つからず草の群れているのを四苦八苦で描いていたのですが、切り立った崖と崖上の緑、荒れた海と岩などメリハリの利いた絵を描く人が目の前にイーゼルを立てあっという間に仕上げびっくりしました。しかも竹藪がメインだったような記憶ですがいつものような感じの絵になっているのです。実景を自分のイメージに変換して描いたのを目撃したわけです。目立つ絵でも好きになれない絵を描く人だなと思っていましたが、なるほど、彼は正確に写そうという気持ちがない。それだから好きになれないのだと腑に落ちたのです。
Cities: Skylinesでで可視化される地下鉄を外部から見たものです。駅に出入りする車両の視点を使うとこの様な画像を見ることができます。 上方左右はホームに向かう地下通路です。あまり流行っていない駅なので人が少なくて残念ですが、左側には人も歩いています。下からの床の表示は設定されていないので空中歩行の絵になります。 このアセットを作った人は大変な作業量だったろうと想像しますが、このゲームはそういう人たちが支えているのでしょうね。
Cities: Skylinesで見られる摩訶不思議な場面です。変なもの好きな性分ですのでついついこんな場面で遊んでしまいます。 地下鉄駅構内の視点ですが、なぜか右側ホームの天井が表示されていません。地表は上からの視線だけで下からは表視されないので外部がもろに見える景観になっています。 ゲームの世界ならですが現実にもこんな駅があったら楽しいななどと妄想が起きてしまいます。
Cities: Skylinesの地下鉄の構内の画像はバニラでは表示されないのですが、有志の作ったアセットの一部に表示されるのもあります。地下鉄に乗り込もうとしている乗客を捕まえて、視点モードにすると乗客視点の動画になるわけです。 これは、ホーム端の階段を降りてるところですね。混雑している様子がうかがわれます。これだけの人が車で来たら渋滞間違いなしと言ったところでしょうか。
Cities: Skylinesからの一コマで、地下鉄駅前のバス停です。 交通渋滞の予防策の一つが公共交通機関の設置ですが、地下鉄とバスの組み合わせは上手くいくととても強力です。 この例ではうまく行きすぎてバスを待つ人で溢れてしまいました。バスの台数を増やして対応しますが限度がありますので解消しないこともあります。その場合に連結式のバスがあるのが心強いですね。なんとかさばけました。
真鶴半島のお林は楠と黒松の巨木が群生して有名でも歩いていくのはシンドイ距離でなかなかいけませんが、我が家から往復2時間コースで森の中にさ迷いこんでしまったと言えるようなところもあります。 こんな巨木が見れると心が動きます。
Cities: Skylinesからの一コマです。 街が大きくなるにしたがって人も車もたくさん動き回ります。人はともかく車が交差点を渡り切れなくなると、どんどん溜まりだして付近一帯が大渋滞になり身動きできなくなりますが、簡単な解決法に、人を地下道で渡すのがあります。この画像はその実例です。 地下道を渡っている人の視線での画像で、地面は見上げると表示されない仕様でシュールな世界が出現します。このゲームの楽しいところですね。
40年前の雲を被った八ヶ岳なのはスケッチの日付と場所の記載で明確です。ほんのちょっとした書き込みでも記録として大事ですね。日記の代りにもなりますし。 日野春駅前の志満屋は絵描きの宿として有名で、我が美術部も、忘年写生会と称してよく利用していました。この場所は、谷あいの奥に八ヶ岳がそびえている構図で素晴らしいのですが、駅の少し先から横に入って川筋に降りないといけなくて教えてもらわないと探せない様なところです。川上尉平先生は神様の宿る場所を見つけ出せると絵の半分はできていると言われましたが、絵描きはそんな場所を求めて歩き回らないといけないのです。
ほぼ二十年前の真鶴港ですね。つい最近のような気がするのは年取った証拠でしょうか。景色はそれほど変わっていませんが、港を出てすぐに波除の堤防ができました。船の出入りにはやや邪魔でしょうが波を抑えるのに必要だったみたいです。 絵だと無粋なものがあるなという風情で描きたい気にはなれませんが。
若い頃から壮年時代まで仲間たちと夏冬の写生会をしていました。今はすたれて集団で絵を描きに行くなどはなくなっているどころか、写生をするのもすたれているようです。アニメが世を席巻しているせいかなと思いますが。 画像は房総の写生会でのもので、30年以上前だと思います。手前に海岸を入れて犬吠埼灯台を描いた油絵をよく見ましたね。人気スポットだったわけです。
開催中の新作家春季展の出品作品です。和紙に墨と代赭に白絵の具です。 コロナ前に上野駅前で撮った写真からです。群衆の中の一組の親子で、フィリッピンとか東南アジアの人だと思います。何故かわかりませんが日本を訪れる外国人に興味をひかれて、ここのところ連作になっています。 暗い話題が多い今日この頃ですが、この様な人たちを見ると暖かな気持ちになれますね。
cites skylinesにはアセットエディタがあり、既存のプロップを組み合わせて独自のものを作れます。使ってみたくなりますよね。と言うことで、階段や壁、床などのプロップがあるので、これらを使って地下道への出入り口の作成に励みました。 苦心惨憺たるものがありましたが、なんとか床面や階段面を歩いているように見えるようになって、やれやれれといった気分です。
雨がちだったり、寒暖が目まぐるしく変わったりして妙な気分ですが、やっと春になったという今日この頃ですね。桜の開花も遅れましたがその分長持ちしているようです。 家から湯河原の夢公園までの登り道が散歩に快適で最近よく歩くようになっています。ここは元はミカンがびっしり植えられていたと思いますが今は草原状態で開けて晴れ晴れしい気持ちにもなりますが少し悲しい気も起きるのもあって複雑な気分です。 でも、この桜の巨木で救われますね。見とれてしまいます。
MWS珪藻標本・津波堆積物(宮城野区)で見られた不思議なモノです。 明視野では色のない世界なのですが、まれには赤とか緑とかがでるようです。正体不明君ですが、青緑色の塊が視野に入ってきたときは「オオ!」となりました。
MWS珪藻標本・津波堆積物(宮城野区)は混沌の世界で、この様なモノも見られました。 金魚鉢の藻をすくって見たときに気持ちの悪いものがまれにあって、細長いものがクネクネと動いているのはギョとしますが線虫です。画像の奴は短いのが気になるのですがどう見ても頭は線虫です。蛇もそうですが細長くてくねくね動くものは気持ち悪いのはなぜか知りたいところですね。
MWS珪藻標本・津波堆積物(宮城野区)でも前回のタラシオシラはありました。堆積物の標本なのでゴチャゴチャしています。土に埋もれて壊れたりして残骸を見ている感が半端ではないです。 これも破片ですが内部は汚れていないと思います。理由はわかりませんが、ひときわ綺麗さが目立った気がしました。
MWS珪藻プレパラートARK-01(干潟)から、タラシオシラみたいです。破片で、本体は丸くてシャーレ状のものです。 六角形の骨格に周辺に穴あきの薄い板が掛かっているという風に見えます。しかし、それだけではなくて見えない小穴も沢山あいているはずなのですが、全く見えませんね。それが写れば誇らしいのですが。
原生動物の世界は摩訶不思議です。 左上の丸くて棘がでているのはハルテリアと言うみたいですが大量に居て飛び回っています。しかも一瞬に跳ねる動きもあり目視ではどんな姿かわからないという奴です。ぼんやりとした丸がいくつか見えているのもこいつです。 中央のはネズミワムシらしいですが、口を塊の中に突っ込んで、せわしなく動いています。これは体の内部も見えて伸縮運動をしているので食事中かなと思いました。
イタチムシを動画で撮影したものです。暗視野で撮ると立体感もでますし、しかも動いているのでなんとも言われぬ魅力がありました。 この試料は原生動物がチラホラいて、小型のものは数多くいました。ここにも結構いますが動きが早いので形はわからなくて光の集まりにしかすぎません。 白黒の境は、空気と水の堺です。種を明かせばなんということもないですが、この絵柄だけを見ていると不思議な世界に迷い込んだような気がしました。
プラスチックの池に金魚を飼っているのですが、側壁に藻がびっしりついています。それを少しとって顕微鏡で観察したものです。 試料は密になっていてほぐせどもほぐせずで、固まっているので何が何だかよくわからない絵柄です。その中でひときわ目立ったのがこのミカヅキモでした。 ミカヅキモの回りに珪藻がちらほら見えていて、葉緑体が見えるのでこれは生きていますね。ほぐして水だけになっているところに殻だけのもかなりありました。藻の中にとじこめられていたのでしょうか。
金魚鉢についた藻をすくって顕微鏡で観察したものです。イタチムシと言うらしいです。元気よく泳ぎまわっていました。生き物のいる水の中は微小な生物で溢れかえっているのが顕微鏡で見るとよくわかります。 ウィキペディアでは、「イタチムシ目は、富栄養の浅い水域の水草の表面や沈殿物の間などではごく普通に見られる。。イタチムシは、腹毛動物門イタチムシ目に属するものの総称、またはこれに属する種Chaetonotus nodicaususの和名である。日本では3科8属45種」です。微妙に違うのが沢山いるんですね。
真鶴道路旧道名物急ブレーキ跡です。引っ越したころに比べると道幅の広くなったところが増えて、随分走りやすくなっているのですが、そうで無いところもままあります。しかも、カーブのところが多いのが辛いところですね。 ダンプが走っていなければこんな跡を残すことはまあないと思いますが、石切り場があり、その跡に残土が運び込まれるのでかなりの台数が常時走っています。一方、観光道路の裏道でもあるのでマナーを心得ない乗用車もまれには通るのでしょう。結果、同じところに消えては現れることが繰り返されるようです。
MSWのJシリーズから、アラクノイディスクス(クモノスケイソウ)です。大型の立派な珪藻で、中心が窪んでいるのと複雑な構造とでピントを変えていくと絵柄もどんどん変化します。 ここだ!となかなか判断できないので何枚も撮って悩むことになります。光学顕微鏡ならではの悩みでしょうね。 表面を見ているようなところを選んだのですが、中心部がボケているのでピントの合っているのを切り抜いて貼り付けています。
前回の続きです。系統ネットワークという手法で、ミトコンドリアDNAハプログループ頻度のデータから47都道府県の関係を示したのがこの図だそうで、このネットワークでは、日本列島中央軸の都道府県の多くが文字通り中央部に位置している、また沖縄県からみると、大分県を除く九州の県が近い位置にある。と解説されています。日本列島中央部と周辺部分の違いを導き出したデータだというのは理解できます。中央部の細長いのとか、離れる方向が八方に広がっているのは何故なのか、深い読み方があるのでしょうが、こんなことをやっているよ的な入口の本なので、そこまでは書いてありませんが、注記に目が行きますね。英文の論文を読んでね。ということでしょうか。
斎藤成也監修・著「ゲノムでたどる日本列島」東京書籍を読みました。そこに出ていた図です。近年、ゲノムの解析が進み日本人の大量に集積したデータを用いてヤポネシアの形成モデルを提唱した。とあります。日本と呼称したのは天武天皇時代なので、それ以前は日本人と言わずヤポネシアと言おうということらしいです。 日本人は旧石器時代に渡来した縄文人と弥生時代に渡来した弥生人との混血で、沖縄とアイヌは縄文人の血が濃いと思っているのですが、この本によるともっと細かくなっていて、本州のヤマト人は中央軸と周辺部分の人に違いが見つかったそうです。後期縄文時代に第二の渡来民(漁労を生業の中心とした狩猟採集民)が来て南西日本で混血、弥生時代に第二波と遺伝的に近い第三波の渡来民(農耕民)が渡来し混血、中央軸が第三波の渡来人の血が濃いそうです。 古事記の出雲の国譲りや、神武東征が、なるほどとうなずける説ですね。
真鶴の東にある浅間山という尾根筋から写したものです。標高100メートルぐらいで広々として気持ち良いところです。 中央が初島、右が伊豆半島で、左のこんもりとしたのが真鶴半島です。真鶴半島は鬱蒼とした大木が生えているので緑の塊です。初島の右上に利島や神津島も見えているのですが、この写真では見つけられませんね。大島や利島は遠くにあるイメージですが意外と近くに見えます。丸木舟でもすぐに行けそうな錯覚を起こします。
真鶴と言いたいところですが湯河原ですね。中央の小島は初島、その左にわずかに見えるか見えないかのが大島です。右は伊豆半島です。3日の午後に散歩に出かけて撮影したものです。 去年の暮れに腰が痛みだし寝付いてしまいました。血液検査などして異常なし、お医者さんに家の前は坂ですかと聞かれ散歩を勧められました。運動不足が原因だったようです。大分前ですが犬と盛んに散歩して地形は頭に入っています。昔を懐かしみながら散歩の再開です。 この辺りはミカン畑だったところです。名残の木が実を付けていますね。転居した頃も残りわずかだった記憶ですが、今はほとんど残っていないようです。山は手入れが行き届かなくなって荒れている感じがします。悲しいですね。
昔語りが続きます。1979年11月発行の「職員文化」の表紙に使ってもらえた絵です。 表紙の言葉として「黒い小さい画面に、赤く、白く花が咲いている。目をすっと離すと、夕暮れの森の中、神々に守護されたヴィナスが輝いている。ー ボッチィチェリ・春の祭典 ー である。 部分をとっても、大きく見ても独立した存在でありながら、たがいに引きあう緊迫した絵を描きたい。この作品は、小さいものだが、画面をこえても絵があるつもりで描いた。」 などと、生意気なことを書いています。
上の絵は1974年8月24日の日付があります。半世紀も前ですね。この年に職場に美術部があるのに気づき入部しました。すぐに3泊4日の夏合宿で勝手も分からず水彩画の用意をして参加、描いたものです。半分は遊びのつもりで宿に着きましたが、先輩達は着くなり思い思いの写生場所を求めて散り、油絵をゴリゴリ描き始めたのを見て仰天しました。ガチの写生会だったのです。 初日の夜は宴会で芸達者な人が多くてさらにビックリさせられましたが、宴会はその日だけで。2,3日目は夜食がすむと部屋の片側に絵がずらりと並べられて延々と続く批評会です。 廃船の絵は初めの批評会に出して、誉められた記憶です。ただ廃船を描くのはよろしくないような発言があって変な気分になったのを覚えています。そのせいか翌日は港を描いたのですが、不満足なものになり、批評会に出すのはやめようとも思いましたが、批評を聞いてみたい気もあって出しました。講師の方が何人かいらっして酷評はされないまま、最後に川上尉平先生が「これには絵の要素が何もない。よく考えなくてはいけない。」と発言され、会場がシーンとなりました。辛かったものの、それ以上にこんな絵を描いてはいけないと骨身に染み、ありがたく思いました。私の恩師、尉平先生の思い出です。
所属している公募展の会員で紙工芸もされている人がいます。年賀状がその作品の一つで干支にちなんだものが届いていて組み立てました。 まずは一枚に切り抜きますが細かいので大変です。ついで、山折り、谷折りの指示線を先のつぶれた用具で凹みを付け折りやすくします。最後に糊代を番号順に接着していきますとご覧のような龍が出来上がりました。 2時間もあればできますが、隙間なく、切残しの白もなく綺麗に組み立てるのは大変です。それでも楽しい作業ですね。この可愛らしい立体をワンピースの平面に展開するのは素人には無理、プロの仕事だと感心します。
寺内正道雪風駆逐艦長です。雪風は激しい戦闘を生き残った幸運艦です。大和の沖縄特攻に参加、寺内艦長の神がかりともいえる操艦で被弾することなく帰還しています。航海長の回想に「艦橋の天井の小さなハッチを開きそこから猪首を出し、敵機を見ながら指揮をとられた。」とあります。押し寄せる急降下爆撃機を手に持った三角定規で直進を確認、絶妙の刻で転舵の指示を出し艦を自在にあやつっていたそうです。 年末に、「ゴジラ-1.0」を見ました。舞台は戦後間もなくの日本です。第一作より昔の設定でゴジラ退治は米軍や日本政府はわれ関せず状態で、民間の有志が旧軍の兵器で立ち向かうという仰天物の設定でした。 小笠原で、掃海艇が機関銃と機雷で立ち向かいますが、危機一髪で駆け付けた重巡高雄の20cm砲弾が炸裂といった調子です。 東京で大暴れして海底に潜み、再攻撃してきたところを駆逐艦雪風以下4隻と戦闘機震電で退治するのですが、雪風の艦長役の人がこの肖像画によく似ていました。
アブラムシの一年は、ずんぐりした幼虫状のものや、翅のある成虫状のものなどいくつかあり、多くが単為生殖で有性生殖で卵を産むのは一回だけだそうです。複雑ですけど、胎生の単為生殖を何回かしてどんどん数を増やす仕組みを生み出したのでしょうね。 写真は卵から孵った第一世代が単為生殖で産んだ第二世代の幼虫のようです。4回脱皮して翅のある成虫になるそうです。何回目かわかりませんが丁度脱皮したところですね。
部分模写した、李成の「茂林遠岫図」を今年の年賀状にしました。原画の大きさは1660mm x 550 mmらしいです。横長の大作で模写した部分は右側の導入部から山岳地帯に入り込んだ処です。 切り立った断崖に滝が落ち、その流れの下流を旅人達が徒渉しています。 滝の奥に連綿と山岳が重なり、山中には楼閣があり、険しい中にも人の気配は濃厚です。 中国人は人を拒絶するような山岳地帯をもこよなく愛しているのかなとも思います。古い時代の山水画をみているとそんな思いにとらわれます。
2024.12.20
「戦史」のシュラクーサイ攻防戦図です。古代ギリシャの戦いは城壁の築造合戦でもあるのがよくわかる図です。アテネ軍は丸型と方形の砦を築いて両側に城壁を伸ばしていきます。北側のトローギスまで伸ばせばシュラクーサイは外部との連絡が取れなくなってしまいます。そうはさせじと遮断壁を伸ばします。手に汗握る競争をしてシュラクーサイが勝利します。
意気揚々とシケリア遠征したアテネ軍でしたが、これ以降勝機をつかむことはなく、ついには殲滅されてしまいます。「おごれるものは久しからず。」になりました。
2024.12.15
昭和41年に購った岩波文庫「戦史」中巻、訳者注の一ページです。
古代ギリシャのペロポネソス戦争(前431〜前404)に参加し、トラキアの戦いで失敗しアテネを追放されたトュキュディデスの手になるドキュメンタリーとも言える本です。
古代ギリシャは多数の都市国家があり、アテネが盟主のデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟が約30年戦いアテネの無条件降伏で終わります。
日本では縄文時代、中国は春秋時代末期ですが、この本はあまりにもリアルで現代の歴史書を読んでいる気がして凄い本だと記憶に刻まれました。
掲載の図は戦い中ごろの休戦中の各国の関係図です。きれいに両陣営に分かれるのではなく、付いたり離れたり複雑な関係をまとめてあります。最下段のラケダイモーンがスパルタです。
いくつかの同盟条約文も記載されていて、その一部の碑文が発掘されて内容が確認されているそうです。民議会でポリスの方針が決まる重要な発言も多く記載されていますが、敵国のもあり資料収集はどうしたのか不思議な気分になったのも思い出されます。
2024.12.10
ほぼ30年前のスケッチですが場所は伊豆の浮島で、魚眼レンズの視点ですね、一度にこの様に眺めることは出来なかったはずです。
記憶が薄れていますが、入り江の両側の小さな岬が印象的だったので1枚に収めたのだと思います。日が暮れてゆき、入り江に一筋の光が当たっていたのに触発されたような気もします。
2024.12.05
2016年に残滓という題名で描いた絵の元写真です。相模湾東部沿岸産の珪藻群で、MWS珪藻プレパラートKMR-01と名づけられています。10倍ぐらい広い範囲のごちゃごちゃしたところを撮影し、キャンバスの縦横比で絵にできると信じた場所を切り取ったわけです。奇妙ですが自分の美意識です。
初期の都会の絵とは大違いの世界ですが、モチーフにつまって当時盛んに観察してた珪藻を絵にしたわけです。
変遷を重ねた絵のモチーフを振り返ると、日常的に接している身の回りの物を描いていたようです。ただ顕微鏡の世界は極わずかの人たちのもので、突然違う絵を見せられた人はびっくりしたと思います。
初めは絵としてみてもらえるか不安でしたし、出来も良くなくて無理筋かなとも思いましたが、続けていると良くなっていったようです。「段々よくなっている。」と絵の先輩に言われたときは嬉しかったです。
2024.11.30
最初の個展は神田の木の葉画廊で1996年にしました。写真はその時の様子です。友人がビデオに撮って編集しDVDで頂きました。大変な骨折りだったでしょうが貴重な記録で感謝に耐えません。
都会と車をF100とかF120で描き続けていたのをまとめて個展にしました。事前に会場を見ていた時に、作品の高さがそろっているので切れ目なく絵巻のように展示できないかと思いついて実行しました。本人は奇抜なのが好みなのでごく自然な選択ですが写真好きでもあるので、フィルムのべた焼きから連想したのかもしれません。しかし、見た人は驚いたと思います。
2024.11.25
大江健三郎作品の題名も内容も全く覚えていないのですが、四国の山中に棲む少年が学校にある本を全部読んだと母親に報告します。それを聞いて母親はある本の何ページにどんなことが書いてあったかを言わせ、確かめると言って服を着替えて帯をキリリと締めて学校に出かけます。母親にとって本を読むとは中身もしっかり覚えてる事だったのです。子供もまたその教えに忠実だったわけです。これって小説でも大江本人の話ですよね。凡人にとって本は読んでいるのではなく単に眺めているだけなんだなと思いました。
偉人と凡人の差に愕然とし記憶に鋭く刺さったのでしょう。何かにつけて思い出します。
写真は新旧の真鶴駅です。引っ越した当初は世の勢いもあってタテ看板がずらりと並んでいました。それがだんだんと減っていき寂しいなと思っていましたが全くなくなっているのに気づいて撮ったのが下の写真です。柱も木造から鉄骨に変わっているし、ぼんくら頭はしょうがないなと反省しきりでした。
2024.11.20
西湘バイパスで前を行く泉ナンバーの大型バスがブレーキを踏むと右側が点灯しません。車体をよく見ると流れ落ちた水垢が薄っすらと見えました。しかも、エンジンを吹かすと黒煙が出ます。古びたトラックが坂道をもうもうと黒煙をはいているのは過去の風景で珍しくもなかったのですが、今の世で観光バスが少しとは言え黒煙を出すとはショックでした。
画像は40歳で描いた絵ですが、観光バスの後ろをこんな感じでついていたのでした。
2024.11.15
真鶴の散歩道で見かける空地です。通るたびにぜいたくな土地だなと思います。林を切り開いた住宅地の入口にあたる三角地なので売りずらくて残された土地のような気もしますが、地元の石で縁を固めているのが印象的で、ぜいたくだと思うわけです。
平屋の小住宅に菜園でのんびり過ごすには最適なような気もします。奥には作業小屋も建っていますし。
2024.11.10
2001年8月27日、勝浦でのスケッチです。夏の終わりは3泊4日で夏合宿という写生旅行をしていたのですが、その時のスケッチです。写生地を決める前に小型のスケッチブックをもってぶらぶらしながらスケッチをとることをしていました。そのうちにここぞという場所に巡り合えるわけです。細長過ぎるのでこの場所で油絵は描きませんでしたが、仲間の一人がパステルで描いて仲間展に出品したのを見ました。描いてるところを見ていなかったので、作品を見たとき「オッ!」となりました。
そんな彼も認知症気味となって仲間たちの展覧会に参加できなくなりました。気持ちを若くしても身体がついてこなくなったのをつくづく感じます。
2024.11.05
11月4日午後3時、真鶴の岩港にかかる岩大橋です。橋の上に見える白い点々は渋滞中の車です。連休最終日、都心への戻り車ですが真鶴道路に入ってすぐに渋滞する混みようです。ここから石橋の西湘バイパス入口まで渋滞は続きます。コロナのせいで久しく見なかった景色です。コロナは完全にはおさまっていないようですが日常生活は元に戻ったようです。なにか心が動きます。
2024.10.30
35歳で描いた油絵「表慶館」です。F100二枚を使って描きました。1.6m×2.6mの大きさです。建物が透視図法的ですから別々では描けません。広いアトリエが必要ですが4.5畳の和室で描いたのでよくやったなと思います。一枚で懲りたのか満足したのか思い出せませんが、これ以降は一枚で描いています。
場所は、国立博物館の表慶館裏側です。建て替え前の法隆寺宝物館(木曜日開館)がひっそりと建っているばかりで人の行かない場所でしたが、飛鳥時代の須弥山石や石人(絵の左下)と朝鮮の石人二体(絵の右下があって、休みの日に行くので法隆寺宝物館はなかなか行けなかったですが、これらの石を見るのが楽しみでした。古代人の気分になっていたのでしょうね。
2024.10.25
前回を多少拡大したものです。よく見ると継ぎ目がわかりますね。大作を制作している画家のアトリエは大きいです。画家の名前は忘れましたが、作品が大きくなるにつれてアトリエが大きくなっていったと発言しているのを見たことがあります。さすがプロと感嘆しました。
継ぎ目なく制作するのは大変です。小生はちと無理なので分割しているわけです。ただ描くのは図柄の不整合が出てくるので、隣り合ったところはつなげて描く必要があります。それが最低しなければならないことでしょうね。また、絵は全体のバランスが大事なので離れて見るのも大事です。大きな部屋が欲しい。・・・となるのです。
2024.10.20
2.1m×1mの大きさです。B1のパネルに和紙を張って3枚つなぎで墨で描いています。芥子園画伝の模写をしていても、作品作りになるとごく普通の写生画の視点になってしまいます。
上野公園は巨木が多く手入れも良いので気持ちの良いところです。そんな中にのんびりと歩いている人々と覆いかぶさる様な木々を描きました。
ほとんど濃淡で描いていて人物だけが線画です。主役は木々で、人々は目立たぬようにあっさりと薄い線で描いていますが人数は多いので、見ていて楽しい気分にはなれるのではないかと思っているのですが、どうでしょうか。
2024.010.15
芥子園画伝山石譜の模写です。
巒頭のいろいろ
主山の脈絡をすでに理解し、輪郭のとり方も習ったので、つぎは諸家の皴法のうち、誰のをはじめにするのがいいかとなると、まず董源は、皴法を集大成して老蒼(古めかしい)ので、これによって、筆を練習すべきである。この筆づかいに熟達さえしていれば、諸家の手法はむずかしくない。画を学ぶ場合、まず悪い筆癖がつくのを最も警戒するが、董源のこの法だけは手にその癖がつくほどよく習うべきで、かれに左袒しようというわけではない。
董源
董源の描く峰(尖った山頂)や巒(まるい山頂)は清らかで深みがあり、意趣は高尚である。批評家は、「かれの水墨画は王維に似て、着色は李思訓に似ている」と述べている。(水墨の)披麻皴を多く用いているが、着色は濃彩で古めかしい。元末四大家の黄公望、倪サンなども多く董源を学んでいる。黄公望は晩年に董源の手法を変えて独自の皴法をつくりあげたが、結局はその範囲を越えることはできなかった。
訳は新藤武弘著「新訳芥子園画伝」による。
2024.010.10
芥子園画伝山石譜の模写です。
平遠法
三遠法の最後は平遠法です。日本の景色でも見られるような景観もあって馴染みやすいと思います。
西洋画との違いは木の取り扱いです。ここぞというところの稜線に様式化された木々が並べられます。写真的な写実のやり方だと山肌全面に描かなければなりませんがそうしないわけです。
東洋画の作法というか約束事というか、目から入ってきた情報を脳内で変換して表現している高等なやり方だと思います。いろいろな試行錯誤があり積み重ねられて普遍性を持ち延々と受け継がれて現代でも共感されているのではないでしょうか。
この方法で現代の日本の風景を描ければと思って周りの海や山を見まわしているのですが途方に暮れるばかりです。
2024.010.05
芥子園画伝山石譜の模写です。
深遠法
山の前からその後ろの奥深くを窺い見るのを「深遠」という深遠法の見本です。「玉女峰や明星峰(ともに陜西の華山の峰)が雲の青さに融けこみ、その翠に包まれた描写などは、まさに深遠である。」とありますが、まさに雲に閉ざされ滝が流れる景観です。しかも、人跡未踏ではなく岩肌を削り落とした道が左下に見られます。
画伝の模写は樹木から初めて人物、動物、家屋と続けました。今、山石で水墨画の中心に来た気がします。それだけに難しく根気もいります。
2024.09.30
芥子園画伝山石譜の模写です。
山を描くための三遠
山には「三遠」がある。麓からその山頂を仰ぎ見るのを「高遠」といい、山の前からその後ろの奥深くを窺い見るのを「深遠」といい、近い山から遠い山を眺め見るのを「平遠」という。高遠は高く、抜きんでて験しく聳え立ち、深遠は山が幾重にも重なり、平遠は遙か遠くまで広々としている。三者は、いずれも画面全体の構図をいっている。 もしも、深くても遙かに遠いという感じがなければ浅くなり、平坦でも遙かな感じがなければ近くなり、高くても遙かな高さが表現されていなければ低くなってしまう。これは山水画で最も嫌うことで、それはあたかも低俗無教養の輩や側臣・奴僕などと対面しているようなもので、これでは山中の隠士ならばすぐにも庵を捨て書物を投げだして、鼻をつまんで逃げだしてしまう。ゆえに、もし遠景をさらに高く見せたいなら、泉(滝)を描き加えて高さを強調する。雁蕩山(浙江楽清県)の千尋の瀑布や、廬山(江西九江県)にある三段の飛泉は、まさにそうした高遠である。また、遠景をさらに深く見せたいなら、雲を描き加えて深さを表現すべきである。玉女峰や明星峰(ともに陜西の華山の峰)が雲の青さに融けこみ、その翠に包まれた描写などは、まさに深遠である。遠景をさらに平らかに見せたいなら、霞を描き加えて平らかさを描出する。華子岡(陜西終南山麓)の明るい細霧や愚公谷(山東臨陜県)の冷やかな霞などは、まさに平遠である。
訳は新藤武弘著「新訳芥子園画伝」による。
2024.09.25
能登に大きな被害をもたらした雨は真鶴では大したことはなかったのですが、近くを散歩したらコンクリート製の土留めが倒れていました。
斜面を切り開いて、排水溝付きのコンクリート道にしているのですが、排水溝のコンクリート土留めが土圧に負けて倒れています。長方形で根入れもなく土圧はかからない前提のようなコンクリートの塊ですが、ローム質はかなり安定していますし、土留めの近くは高さもないので長い間無事だったようです。それでもじわじわ押されていて水をたっぷり含んだ時に限界に来たようです。大雨が降ると山崩れのニュースが目立つようになって国土が荒れているのに不安を感じる日々になりました。
2024.09.20
真鶴の新興と言っても30年はたっている住宅地の石垣です。
コンクリート擁壁が一般的ですが、人の高さを超えていても石のしかも成形された信じられない擁壁があって、初めて見たときは不思議な気持ちにとらわれたものです。
真鶴は石の産地でもあるので、この土地の所有者は石材関係者で採算性など無視で自分の気に入ったように作ったのではないかと想像しているのですが、たいしたものだとかうらやましいとか雑念も生じます。
2024.09.15
芥子園画伝山石譜の模写です。
李成
この図例は李成の<匡盧東浙図>の筆意である。書法でいう「筆線が細くて強いこと、神に通ず」という特色を李成は得ている。
訳は新藤武弘著「新訳芥子園画伝」による。
匡盧東浙図はネット検索で見つけられず現存しているかも不明です。真作を実見できるのは限られた人でしょうし、時代が古くなるほど残存する作品は貴重で、全く残っていない場合もあるでしょう。諸家の画風がどのように伝わっていったのか不思議に思えます。
中国人は自分たちが生み出した優れたものの伝承を大切にする精神があり、現物に限らず模写や再現できる方法をも含めて伝えてきている、しかも、数多くの戦乱と王朝交代があっても途絶えないのは凄い人たちだと思えてきます。
2024.09.10
芥子園画伝山石譜の模写です。
李公麟
李公麟は顧ト之、陸探微、張僧よう、呉道玄および他の諸名家の画法を総合して自己のものとしたが、その作品の多くは着色を施していない。或る批評家は、「李公麟の山水画は李思訓に似ていて、瀟洒な感じは王維のようであり、まさに宋代絵画の第一とすべし」と述べている。
李公麟(北宋1049-1106)宋朝の高官であるが、晩年は故郷の龍眠山に隠居し、書画三昧を楽しんだ。六朝以来の白描画による人物・馬・山水を得意とした。
訳と来歴は新藤武弘著「新訳芥子園画伝」による。
昨年末に根津美術館で北宋書画精華展があり、李公麟の「孝経図巻」「五馬図巻」は目玉的な扱いで紹介されていました。オンラインの日時指定制でじっくり見れて至福の時間でした。また、燕文貴の「江山楼観図」が高さ30センチの巻物で、倍の大きさはあると思っていたので吃驚、大きさを錯覚していた程の細緻な描写にため息がでました。
2024.09.05
角は除いて体長4センチのカブトムシです。普通の大きさのようですが丸々として立派です。さすがオスのカブトムシと拍手しちゃいます。自分にしても意味ないですが初めて捕まえたので嬉しさもひとしおです。
2024.08.30
芥子園画伝山石譜・又主山自為環抱法の模写です。
主山が客峰を抱くもう一つの例
トレースとか測ったりしないで目測だけで模写しています。神経を酷使するので実は大変です。しかも原画のとおりではなく歪みが出てきます。
気合が入って勉強になると思ってやっていてしんどいものの終わって眺めて、ちょっと違うがなんとか見れるよなとなると良い気分になれます。
2024.08.25
F0のキャンバスに余った油絵具で描いたものです。というかこすりつけたというべきでしょうか。
限られた色数で抽象的なものを試みていました。かなり前なので記憶がはっきりしませんが発想をつぎつぎと変えなければならないので結構しんどかったような、楽しみだったような気分だったような気がします。
これを見ると絵具を盛り上げて質感を強調するよりは削り落としてパレットナイフの動きやわずかに残った白を大事にしているのが分かりますが黒を削ったのはやり過ぎたように思いました。
2024.08.20
ここのところ芥子園画伝の模写を熱心にしています。模写を重ねると稜線の変化の凄さに圧倒され、筆を自在に働かせなくてはいけないのを今更ながら思い知りました。
書道動画で中峰の大事さを解説していたのに啓発されて練習したのがこの画像です。直線を引くつもりでも波打ってしまう体たらくなのでまずは直線からです。これでも良くなっているのですがぶきっちょなのがありありですね。
中峰は水墨画では直筆と言うようですが、
@筆を真っすぐに立てる。
A筆を線の起点に下す。
B少し尻を上げる。
C線を引く。
どの方向でも筆の穂先が真ん中を通る中峰になり、筆に蓄えられた墨が毛細管現象で下に沈み盛り上がって厚みのある線ができる。なるほどです。
腕全体を動かすこともありますが、これも難しいですね。
2024.08.15
芥子園画伝山石譜・又賓主朝揖法の模写です。
主山と客峰が挨拶する別の例
主山が客峰を抱く
前頁の例図は客峰を借りて連山の気象("気"の形勢)を表わしているが、ここでは特に主山みずからが周囲に客峰を抱きかかえている場合の例を挙げよう。主山は頭を高く上げ、腕を伸ばして周囲の景色を包みこんでいるので、外観はこれ以上煩雑にすることはない。つまり、主題がはっきり表わされているので、余分な装飾は必要としない。これを前頁の図と比較すると、前者は天子が正殿にお出でになり、多くの諸侯が参列して仰ぎ見ているようなものであるのに対し、この図は天子がひとり宮殿の奥深く、静かに政道を黙考しておられる感じである。王維はかってこの方法を用いて主山を描いた。
2024.08.10
芥子園画伝山石譜・賓主朝揖法の模写です。
主山と客峰が挨拶する
王維は「山を描くには、まず気象("気"の形勢)を観察し、つぎに"気"の軽快さ、重々しさをはっきりさせ、主なる山と客なる山が挨拶をかわしているように配置し、群峰の偉容を描き連ねる。群峰が多過ぎると乱雑になり、少なすぎると散漫になる。」と述べている。
山には高いものも低いものもある。高い山はその下に血脈(つながり)があり、肩が張り、脚を開いてどっしりとしていて、これを低い山々が取巻き、連なりあって絶えることはない。これが高山であり、「孤立もせず、こみあうこともない」といえる。低い山は血脈が上にあり、頂上は平らで、尾根が上へ連なり、麓は大きく広がり、そこに丘や小山が膨れあがって入り組み、複雑なること測り知れない。これが浅山であり、「薄からず、隙間がない」といえる。
よって(この図では)、山の輪郭を明瞭にして、その脈絡の連なりを正確に示した。また、初心者が山の描き方の基本を理解しやすいようにと、皴を加えなかった。山を描くための皴法はいろいろあるが、すでに各大家の石の描き方を説明したなかに詳しく述べた。
訳は新藤武弘著「新訳芥子園画伝」からです。
2024.08.05
体長5センチのノコギリクワガタです。
形を整えるときに左触角を損傷しましたが無傷の状態でしょう。散歩の終わり近く自宅まで5分も掛からないようなところで拾いました。その前にも同じ場所で拾いましたがクワガタの半分が欠けていて残念な思いでしたが、それが解消されたわけです。不思議な気がしますね。
2024.07.30
芥子園画伝山石譜・王叔明皴法の模写です。
王蒙は、元末の画家で字は叔明、号は黄鶴山樵。黄公望・倪さん・呉鎮らと並ぶ元末四大家の一人だそうです。
ある本に「王蒙の絵の構成は繁茂の表現に勝り、良く変化し、多様である。その構図の奇なることは、史上まれに見るものである。」とあります。
模写しながら、この皴法は粘っこくて怪異なところもあるなと感じていましたが、上記のような絵にふさわしいと納得します。
2024.07.25
散歩の途中で拾ったトンボです。オオシオカラトンボというようです。
このままの形で転がっていました。なので人間で言えば五体満足だと思い込んで、なんとも不思議な昆虫だと面白がって撮影したのです。
頭が取れているのに気づいたのはかなり立って、複眼の巨大な飛んでいるトンボを見てからです。
どうも加齢と難聴で脳みそが劣化しているようです。
釣銭を間違えたり、文を読んでいてなんでもない一行の意味がピンと来なくてしばらく考えて意味が取れたりすることが多々あります。
早とちりと判断の柔軟性がなくなっているようですね。年寄りは気が短いとか、じじいは偏屈だとかよく聞きますが、自分自身がそうなっているのでした。トホホです。
2024.07.20
油絵から離れて大分たち絵の具に触ることもなくなっているのですが、盛んに描いていたころ絵が描けてもパレットにまだ絵の具がある時、無駄に捨てることもないので、0号のキャンバスにこすりつけていました。そんな中の一枚です。
油絵具は重厚かつ強靭で粘っこいです。堂々として存在感のあるものに適していると思います。厚く盛り上げもできますし、筆やバレットナイフの動きも明確です。キャンバスの上で絵の具を混ぜて求める色に突き当れた時はうれしさもひときわです。使いこなすのは大変で苦労は多いものの、よく出来たときの喜びも大きい素材だったと思います。
そんな気に入っていた素材から離れたのは、油を使うので準備や後片付けに手間がかかりますし、臭いも相当なもので、加齢とともにめんどくさくなってきたからでしょうね。
2024.07.15
B1のパネルに和紙を張って墨で描いています。今年の春の上野公園で行き来している人々を撮影しましたが、それらの人々を組み合わせて絵にしました。
インバウンド復活で外人は多いですが、日本人も多くて賑やかでした。マスクの人も少なく平常モードに戻っていますね。
2024.07.10
2.1m×1mの大きさです。B1のパネルに和紙を張って3枚つなぎで墨で描いています。墨はひじょうに薄く重ね塗りで濃くします。重ねが多いほど黒くなっていきます。それでもぼんやりとして柔らかい感じにとどまり強い印象は残りません。じっくり味わってください。という絵なのです。
2024.07.05
真鶴は石の産地でもあるので、あちこちに石垣やかなり大きな石を組み上げて土留めにしているのが良く見られます。
画像は旧道沿いにある廃ミカン畑ですね。根こそぎにしているのでしょう、わずかに残されたミカンの木が左端に見えますが他は草が生い茂るばかりです。ゆったりとした勾配の場所で石の積み方も、くず石を集めてきて適当に積んだような気がします。肝心な根元は大きめの石で、上っ面はちいさな石で積んでいるように見えるので実はなかなか工夫されたものだったりというような気もします。
2024.07.01
石光眞清(1868-1942)氏の著作3冊を図書館の戦記やドキュメンタリーの棚で発見、古い本ですが閉架に置いていたのを開架に持ち出したようです。固表紙で目につきました。
画像は上が眞清氏で下が弟の真臣氏です。日清戦争の出発前に撮影した写真のトレースです。
弟は砲兵中将まで進級していますが、本人は、日露戦争前にシベリアと満州で諜報活動をするのに軍籍を離れたので少佐どまりです。
日清戦争時は近衛師団歩兵第二連隊第三中隊の小隊長で中尉で初陣でしたが、後方の予備師団で戦闘はしないまま、割譲後の台湾に守備のため派遣されます。ところが台湾の清軍は降伏しなかったので、そこが初陣になりました。
木こり道を辿っていった基隆川沿いの村落に早朝攻め込みます。第二中隊は予備で待機し、まず第一中隊が、ついで第三中隊が攻撃開始です。作者は、突撃の機会をうかがいますが、目の先が暗くなり、耳までが遠くなって小銃の音さえが良く聞こえなくなったそうです。じっとしていられませんから、大声を出し一直線に村落に飛び込み中央の道路を駆け抜けついてきた部下を基隆川岸に展開させ射撃させたそうです。一時間の白兵戦で清軍が逃げて終了しました。
茫然としていたところで第二中隊長から声をかけられ、左手にお守りを右手に小銃の掃除棒を握りしめていたのに気づいたそうです。
初陣で動転し冷静さがなくなっていたのでしょうね。それでも、部下を失うことなく戦闘に加わり勝利を得ているので大したものです。動転したさまをしっかり述べているのにも感心しました。
2024.06.25
若い頃描いたF8の油絵です。
背景の灰色の壁の暗部をバレットナイフで削り落として変化をつけるやり方をしているのは初心者のやり方ではありませんから、油絵の具の使い方も手探り状態だったのが、だんだんと身についてきたころでしょうね。
自宅の居間の角に飾っていた薔薇で、壁を灰色に変えたり、台の真ん中の花瓶もカーテンに近づけたりとか構成にも気を配っていたんだなぁと思います。
2024.06.20
前回で箱根の写生会の話を書きましたが、その時の箱根は強羅での絵です。30号で現場で描くにはかなり大きいと思います。そこに魅力があるとは考えられない草草を描いているのですから作者はかなり変な人ですね。我がことながらそう思います。
人の目はその人の思いで強調したり省略したりして見ているようで、機械の目で撮った写真とは印象が違いますが、今は映像が周りに溢れていますから、何かを思い浮かべるときに自分の目で見たものよりも写真や動画でみたものの印象が先に出てくると思います。映像の形が真実になっている時代なのだと思います。
このような力足らずの写生画は時代遅れなのでしょうね。
2024.06.15
小生の写生は現場主義です。ひたすら対象を見つめて正確に写し取ろうと努めます。思うようにはならないのが辛いところです。ここは真鶴の番場浦、江戸城築城に石を切り出したところだそうです。奥に切り立った面が見え、そこに行く階段や道筋がお判りいただけるでしょうか。
夏合宿に箱根に行ったことがあります。濃い緑ばかりで写生地が見つからず草の群れているのを四苦八苦で描いていたのですが、切り立った崖と崖上の緑、荒れた海と岩などメリハリの利いた絵を描く人が目の前にイーゼルを立てあっという間に仕上げびっくりしました。しかも竹藪がメインだったような記憶ですがいつものような感じの絵になっているのです。実景を自分のイメージに変換して描いたのを目撃したわけです。目立つ絵でも好きになれない絵を描く人だなと思っていましたが、なるほど、彼は正確に写そうという気持ちがない。それだから好きになれないのだと腑に落ちたのです。
2024.06.10
Cities: Skylinesでで可視化される地下鉄を外部から見たものです。駅に出入りする車両の視点を使うとこの様な画像を見ることができます。
上方左右はホームに向かう地下通路です。あまり流行っていない駅なので人が少なくて残念ですが、左側には人も歩いています。下からの床の表示は設定されていないので空中歩行の絵になります。
このアセットを作った人は大変な作業量だったろうと想像しますが、このゲームはそういう人たちが支えているのでしょうね。
2024.06.05
Cities: Skylinesで見られる摩訶不思議な場面です。変なもの好きな性分ですのでついついこんな場面で遊んでしまいます。
地下鉄駅構内の視点ですが、なぜか右側ホームの天井が表示されていません。地表は上からの視線だけで下からは表視されないので外部がもろに見える景観になっています。
ゲームの世界ならですが現実にもこんな駅があったら楽しいななどと妄想が起きてしまいます。
2024.05.30
Cities: Skylinesの地下鉄の構内の画像はバニラでは表示されないのですが、有志の作ったアセットの一部に表示されるのもあります。地下鉄に乗り込もうとしている乗客を捕まえて、視点モードにすると乗客視点の動画になるわけです。
これは、ホーム端の階段を降りてるところですね。混雑している様子がうかがわれます。これだけの人が車で来たら渋滞間違いなしと言ったところでしょうか。
2024.05.25
Cities: Skylinesからの一コマで、地下鉄駅前のバス停です。
交通渋滞の予防策の一つが公共交通機関の設置ですが、地下鉄とバスの組み合わせは上手くいくととても強力です。
この例ではうまく行きすぎてバスを待つ人で溢れてしまいました。バスの台数を増やして対応しますが限度がありますので解消しないこともあります。その場合に連結式のバスがあるのが心強いですね。なんとかさばけました。
2024.05.20
真鶴半島のお林は楠と黒松の巨木が群生して有名でも歩いていくのはシンドイ距離でなかなかいけませんが、我が家から往復2時間コースで森の中にさ迷いこんでしまったと言えるようなところもあります。
こんな巨木が見れると心が動きます。
2024.05.15
Cities: Skylinesからの一コマです。
街が大きくなるにしたがって人も車もたくさん動き回ります。人はともかく車が交差点を渡り切れなくなると、どんどん溜まりだして付近一帯が大渋滞になり身動きできなくなりますが、簡単な解決法に、人を地下道で渡すのがあります。この画像はその実例です。
地下道を渡っている人の視線での画像で、地面は見上げると表示されない仕様でシュールな世界が出現します。このゲームの楽しいところですね。
2024.05.10
40年前の雲を被った八ヶ岳なのはスケッチの日付と場所の記載で明確です。ほんのちょっとした書き込みでも記録として大事ですね。日記の代りにもなりますし。
日野春駅前の志満屋は絵描きの宿として有名で、我が美術部も、忘年写生会と称してよく利用していました。この場所は、谷あいの奥に八ヶ岳がそびえている構図で素晴らしいのですが、駅の少し先から横に入って川筋に降りないといけなくて教えてもらわないと探せない様なところです。川上尉平先生は神様の宿る場所を見つけ出せると絵の半分はできていると言われましたが、絵描きはそんな場所を求めて歩き回らないといけないのです。
2024.05.05
ほぼ二十年前の真鶴港ですね。つい最近のような気がするのは年取った証拠でしょうか。景色はそれほど変わっていませんが、港を出てすぐに波除の堤防ができました。船の出入りにはやや邪魔でしょうが波を抑えるのに必要だったみたいです。
絵だと無粋なものがあるなという風情で描きたい気にはなれませんが。
2024.04.30
若い頃から壮年時代まで仲間たちと夏冬の写生会をしていました。今はすたれて集団で絵を描きに行くなどはなくなっているどころか、写生をするのもすたれているようです。アニメが世を席巻しているせいかなと思いますが。
画像は房総の写生会でのもので、30年以上前だと思います。手前に海岸を入れて犬吠埼灯台を描いた油絵をよく見ましたね。人気スポットだったわけです。
2024.04.25
開催中の新作家春季展の出品作品です。和紙に墨と代赭に白絵の具です。
コロナ前に上野駅前で撮った写真からです。群衆の中の一組の親子で、フィリッピンとか東南アジアの人だと思います。何故かわかりませんが日本を訪れる外国人に興味をひかれて、ここのところ連作になっています。 暗い話題が多い今日この頃ですが、この様な人たちを見ると暖かな気持ちになれますね。
2024.04.20
cites skylinesにはアセットエディタがあり、既存のプロップを組み合わせて独自のものを作れます。使ってみたくなりますよね。と言うことで、階段や壁、床などのプロップがあるので、これらを使って地下道への出入り口の作成に励みました。
苦心惨憺たるものがありましたが、なんとか床面や階段面を歩いているように見えるようになって、やれやれれといった気分です。
2024.04.15
雨がちだったり、寒暖が目まぐるしく変わったりして妙な気分ですが、やっと春になったという今日この頃ですね。桜の開花も遅れましたがその分長持ちしているようです。
家から湯河原の夢公園までの登り道が散歩に快適で最近よく歩くようになっています。ここは元はミカンがびっしり植えられていたと思いますが今は草原状態で開けて晴れ晴れしい気持ちにもなりますが少し悲しい気も起きるのもあって複雑な気分です。
でも、この桜の巨木で救われますね。見とれてしまいます。
2024.04.10
MWS珪藻標本・津波堆積物(宮城野区)で見られた不思議なモノです。
明視野では色のない世界なのですが、まれには赤とか緑とかがでるようです。正体不明君ですが、青緑色の塊が視野に入ってきたときは「オオ!」となりました。
2024.04.05
MWS珪藻標本・津波堆積物(宮城野区)は混沌の世界で、この様なモノも見られました。
金魚鉢の藻をすくって見たときに気持ちの悪いものがまれにあって、細長いものがクネクネと動いているのはギョとしますが線虫です。画像の奴は短いのが気になるのですがどう見ても頭は線虫です。蛇もそうですが細長くてくねくね動くものは気持ち悪いのはなぜか知りたいところですね。
2024.03.30
MWS珪藻標本・津波堆積物(宮城野区)でも前回のタラシオシラはありました。堆積物の標本なのでゴチャゴチャしています。土に埋もれて壊れたりして残骸を見ている感が半端ではないです。
これも破片ですが内部は汚れていないと思います。理由はわかりませんが、ひときわ綺麗さが目立った気がしました。
2024.03.25
MWS珪藻プレパラートARK-01(干潟)から、タラシオシラみたいです。破片で、本体は丸くてシャーレ状のものです。
六角形の骨格に周辺に穴あきの薄い板が掛かっているという風に見えます。しかし、それだけではなくて見えない小穴も沢山あいているはずなのですが、全く見えませんね。それが写れば誇らしいのですが。
2024.03.20
原生動物の世界は摩訶不思議です。
左上の丸くて棘がでているのはハルテリアと言うみたいですが大量に居て飛び回っています。しかも一瞬に跳ねる動きもあり目視ではどんな姿かわからないという奴です。ぼんやりとした丸がいくつか見えているのもこいつです。
中央のはネズミワムシらしいですが、口を塊の中に突っ込んで、せわしなく動いています。これは体の内部も見えて伸縮運動をしているので食事中かなと思いました。
2024.03.15
イタチムシを動画で撮影したものです。暗視野で撮ると立体感もでますし、しかも動いているのでなんとも言われぬ魅力がありました。
この試料は原生動物がチラホラいて、小型のものは数多くいました。ここにも結構いますが動きが早いので形はわからなくて光の集まりにしかすぎません。
白黒の境は、空気と水の堺です。種を明かせばなんということもないですが、この絵柄だけを見ていると不思議な世界に迷い込んだような気がしました。
2024.03.10
プラスチックの池に金魚を飼っているのですが、側壁に藻がびっしりついています。それを少しとって顕微鏡で観察したものです。
試料は密になっていてほぐせどもほぐせずで、固まっているので何が何だかよくわからない絵柄です。その中でひときわ目立ったのがこのミカヅキモでした。
ミカヅキモの回りに珪藻がちらほら見えていて、葉緑体が見えるのでこれは生きていますね。ほぐして水だけになっているところに殻だけのもかなりありました。藻の中にとじこめられていたのでしょうか。
2024.03.05
金魚鉢についた藻をすくって顕微鏡で観察したものです。イタチムシと言うらしいです。元気よく泳ぎまわっていました。生き物のいる水の中は微小な生物で溢れかえっているのが顕微鏡で見るとよくわかります。
ウィキペディアでは、「イタチムシ目は、富栄養の浅い水域の水草の表面や沈殿物の間などではごく普通に見られる。。イタチムシは、腹毛動物門イタチムシ目に属するものの総称、またはこれに属する種Chaetonotus nodicaususの和名である。日本では3科8属45種」です。微妙に違うのが沢山いるんですね。
2024.03.01
真鶴道路旧道名物急ブレーキ跡です。引っ越したころに比べると道幅の広くなったところが増えて、随分走りやすくなっているのですが、そうで無いところもままあります。しかも、カーブのところが多いのが辛いところですね。
ダンプが走っていなければこんな跡を残すことはまあないと思いますが、石切り場があり、その跡に残土が運び込まれるのでかなりの台数が常時走っています。一方、観光道路の裏道でもあるのでマナーを心得ない乗用車もまれには通るのでしょう。結果、同じところに消えては現れることが繰り返されるようです。
2024.02.25
MSWのJシリーズから、アラクノイディスクス(クモノスケイソウ)です。大型の立派な珪藻で、中心が窪んでいるのと複雑な構造とでピントを変えていくと絵柄もどんどん変化します。
ここだ!となかなか判断できないので何枚も撮って悩むことになります。光学顕微鏡ならではの悩みでしょうね。
表面を見ているようなところを選んだのですが、中心部がボケているのでピントの合っているのを切り抜いて貼り付けています。
2024.02.20
前回の続きです。系統ネットワークという手法で、ミトコンドリアDNAハプログループ頻度のデータから47都道府県の関係を示したのがこの図だそうで、このネットワークでは、日本列島中央軸の都道府県の多くが文字通り中央部に位置している、また沖縄県からみると、大分県を除く九州の県が近い位置にある。と解説されています。日本列島中央部と周辺部分の違いを導き出したデータだというのは理解できます。中央部の細長いのとか、離れる方向が八方に広がっているのは何故なのか、深い読み方があるのでしょうが、こんなことをやっているよ的な入口の本なので、そこまでは書いてありませんが、注記に目が行きますね。英文の論文を読んでね。ということでしょうか。
2024.02.15
斎藤成也監修・著「ゲノムでたどる日本列島」東京書籍を読みました。そこに出ていた図です。近年、ゲノムの解析が進み日本人の大量に集積したデータを用いてヤポネシアの形成モデルを提唱した。とあります。日本と呼称したのは天武天皇時代なので、それ以前は日本人と言わずヤポネシアと言おうということらしいです。
日本人は旧石器時代に渡来した縄文人と弥生時代に渡来した弥生人との混血で、沖縄とアイヌは縄文人の血が濃いと思っているのですが、この本によるともっと細かくなっていて、本州のヤマト人は中央軸と周辺部分の人に違いが見つかったそうです。後期縄文時代に第二の渡来民(漁労を生業の中心とした狩猟採集民)が来て南西日本で混血、弥生時代に第二波と遺伝的に近い第三波の渡来民(農耕民)が渡来し混血、中央軸が第三波の渡来人の血が濃いそうです。
古事記の出雲の国譲りや、神武東征が、なるほどとうなずける説ですね。
2024.02.10
真鶴の東にある浅間山という尾根筋から写したものです。標高100メートルぐらいで広々として気持ち良いところです。
中央が初島、右が伊豆半島で、左のこんもりとしたのが真鶴半島です。真鶴半島は鬱蒼とした大木が生えているので緑の塊です。初島の右上に利島や神津島も見えているのですが、この写真では見つけられませんね。大島や利島は遠くにあるイメージですが意外と近くに見えます。丸木舟でもすぐに行けそうな錯覚を起こします。
2024.02.05
真鶴と言いたいところですが湯河原ですね。中央の小島は初島、その左にわずかに見えるか見えないかのが大島です。右は伊豆半島です。3日の午後に散歩に出かけて撮影したものです。
去年の暮れに腰が痛みだし寝付いてしまいました。血液検査などして異常なし、お医者さんに家の前は坂ですかと聞かれ散歩を勧められました。運動不足が原因だったようです。大分前ですが犬と盛んに散歩して地形は頭に入っています。昔を懐かしみながら散歩の再開です。
この辺りはミカン畑だったところです。名残の木が実を付けていますね。転居した頃も残りわずかだった記憶ですが、今はほとんど残っていないようです。山は手入れが行き届かなくなって荒れている感じがします。悲しいですね。
2024.01.30
昔語りが続きます。1979年11月発行の「職員文化」の表紙に使ってもらえた絵です。
表紙の言葉として「黒い小さい画面に、赤く、白く花が咲いている。目をすっと離すと、夕暮れの森の中、神々に守護されたヴィナスが輝いている。ー ボッチィチェリ・春の祭典 ー である。
部分をとっても、大きく見ても独立した存在でありながら、たがいに引きあう緊迫した絵を描きたい。この作品は、小さいものだが、画面をこえても絵があるつもりで描いた。」
などと、生意気なことを書いています。
2024.01.25
上の絵は1974年8月24日の日付があります。半世紀も前ですね。この年に職場に美術部があるのに気づき入部しました。すぐに3泊4日の夏合宿で勝手も分からず水彩画の用意をして参加、描いたものです。半分は遊びのつもりで宿に着きましたが、先輩達は着くなり思い思いの写生場所を求めて散り、油絵をゴリゴリ描き始めたのを見て仰天しました。ガチの写生会だったのです。
初日の夜は宴会で芸達者な人が多くてさらにビックリさせられましたが、宴会はその日だけで。2,3日目は夜食がすむと部屋の片側に絵がずらりと並べられて延々と続く批評会です。
廃船の絵は初めの批評会に出して、誉められた記憶です。ただ廃船を描くのはよろしくないような発言があって変な気分になったのを覚えています。そのせいか翌日は港を描いたのですが、不満足なものになり、批評会に出すのはやめようとも思いましたが、批評を聞いてみたい気もあって出しました。講師の方が何人かいらっして酷評はされないまま、最後に川上尉平先生が「これには絵の要素が何もない。よく考えなくてはいけない。」と発言され、会場がシーンとなりました。辛かったものの、それ以上にこんな絵を描いてはいけないと骨身に染み、ありがたく思いました。私の恩師、尉平先生の思い出です。
2024.01.20
所属している公募展の会員で紙工芸もされている人がいます。年賀状がその作品の一つで干支にちなんだものが届いていて組み立てました。
まずは一枚に切り抜きますが細かいので大変です。ついで、山折り、谷折りの指示線を先のつぶれた用具で凹みを付け折りやすくします。最後に糊代を番号順に接着していきますとご覧のような龍が出来上がりました。
2時間もあればできますが、隙間なく、切残しの白もなく綺麗に組み立てるのは大変です。それでも楽しい作業ですね。この可愛らしい立体をワンピースの平面に展開するのは素人には無理、プロの仕事だと感心します。
2024.01.15
寺内正道雪風駆逐艦長です。雪風は激しい戦闘を生き残った幸運艦です。大和の沖縄特攻に参加、寺内艦長の神がかりともいえる操艦で被弾することなく帰還しています。航海長の回想に「艦橋の天井の小さなハッチを開きそこから猪首を出し、敵機を見ながら指揮をとられた。」とあります。押し寄せる急降下爆撃機を手に持った三角定規で直進を確認、絶妙の刻で転舵の指示を出し艦を自在にあやつっていたそうです。
年末に、「ゴジラ-1.0」を見ました。舞台は戦後間もなくの日本です。第一作より昔の設定でゴジラ退治は米軍や日本政府はわれ関せず状態で、民間の有志が旧軍の兵器で立ち向かうという仰天物の設定でした。
小笠原で、掃海艇が機関銃と機雷で立ち向かいますが、危機一髪で駆け付けた重巡高雄の20cm砲弾が炸裂といった調子です。 東京で大暴れして海底に潜み、再攻撃してきたところを駆逐艦雪風以下4隻と戦闘機震電で退治するのですが、雪風の艦長役の人がこの肖像画によく似ていました。
2024.01.10
アブラムシの一年は、ずんぐりした幼虫状のものや、翅のある成虫状のものなどいくつかあり、多くが単為生殖で有性生殖で卵を産むのは一回だけだそうです。複雑ですけど、胎生の単為生殖を何回かしてどんどん数を増やす仕組みを生み出したのでしょうね。
写真は卵から孵った第一世代が単為生殖で産んだ第二世代の幼虫のようです。4回脱皮して翅のある成虫になるそうです。何回目かわかりませんが丁度脱皮したところですね。
2024.01.05
部分模写した、李成の「茂林遠岫図」を今年の年賀状にしました。原画の大きさは1660mm x 550 mmらしいです。横長の大作で模写した部分は右側の導入部から山岳地帯に入り込んだ処です。
切り立った断崖に滝が落ち、その流れの下流を旅人達が徒渉しています。
滝の奥に連綿と山岳が重なり、山中には楼閣があり、険しい中にも人の気配は濃厚です。
中国人は人を拒絶するような山岳地帯をもこよなく愛しているのかなとも思います。古い時代の山水画をみているとそんな思いにとらわれます。