「これ貞観六年孟夏の月。皇帝、暑を九成の宮に避く。これすなわち隋の仁寿宮なり。」 唐の第二代皇帝太宗が皇后とともに仁寿宮に避暑に行き甘美な泉を見出し瑞兆として石碑を建てました。古来楷書の名品として珍重され、現代日本でも「九成宮醴泉銘 欧陽詢」として習字のお手本帳となっています。 左図は、巻頭の一頁をスキャニングし輪郭をなぞって輪郭線のみのデータにしました。それをプリントして下が透ける半紙をのせ書いたものです。 このように実力で書ければいうことはなし。なのですが、電子機器とソフトの力を借りて出来たものです。それでも勉強になるらしいです。字配りとか筆の動きとか名人の息遣いを感じて意義がある。と解説されていたのを見たことがあります。
顕微鏡の世界では暗視野にすると暗闇の中に光り輝くものが現れます。光の当て方を変えると色変わりの世界も現れます。図はMWS珪藻プレパラートJ297から、そんな色変わりの世界を合成したものです。 ギロシグマ(エスガタケイソウ)じゃないかなと思っているのですが、形も違えば色彩もかなり違って楽しい世界です。左の濃藍から明るい空色への変化は腑に落ちますが、右の青緑から赤に変わるのはビックリものですね。
モースは大学近くに洋館を作ってもらい授業や講演をし、全国を訪れ多くの人と触れ合いながら研究材料や大学の標本も採集しているので日本の知見は広く深いものがあったようです。そして親日家として知られます。以下は日本の国民性に関する記述です。時は明治10年以降です。地方は江戸時代と同様だったと思います。 晝間通過した村は、いつでも無人の境の觀があつた。小數の老衰した男女や、小さな子供は見受けられたが、他の人々は、いづれも田畑で働くか、あるひは家の中で忙しくしてゐた。これはこの國民が、如何に一般的に勤勉であるかを、示してゐる。人々は一人殘らず働き、みんな貧乏してゐるやうに見えるが、窮民はゐない。我が國では大工場で行はれる多くの産業が、ここでは家庭で行はれる。我々が工場で大規模に行ふことを、彼等は住宅内でやるので、村を通りぬける人は、紡績、機織、植物蝋の製造、その他の多くが行はれてゐるのを見る。これ等は家族の全員、赤ん坊時代を過ぎた子供から、盲の老翁老婆に至る迄が行ふ。(私は京都の陶器業者に、殊にこの點を氣づいた。)
モースは大森貝塚を発見したことで有名ですが日本滞在記も残しています。1877年39才でシャミセンガイの採取目的で来日し、縁あって東京大学の動物学科の教授になります。図はモースが描いたものでふんどし一丁で働く日本人と貝塚の出土品です。以下はその文章から 日本に着いてから數週間になる。その間に私は少數の例外を除いて、勞働階級―農夫や人足達―と接觸したのであるが、彼等は如何に眞面目で、藝術的の趣味を持ち、そして清潔であつたらう! 遠からぬ内に、私は、より上層の階級に近づきたいと思つてる。この國では「上流」と「下流」とが、はつきりした定義を持つてるのである。下流に屬する勞働者たちの正直、節儉、丁寧、清潔、その他我が國に於て「基督教徒的」とも呼ばるべき道コのすべてに關しては、一冊の本を書くことも出來るくらゐである。 昨今、Youtubeで来日外国人が日本は素晴らしい国だと叫びまわっていますが、今も昔も変わっていないのですね。さすがにふんどし一丁はなくなったとしても。
28才で描いたF0号の油絵です。子供のころから絵は好きだったのですが、職場の美術部に入って本格的に描き始めたころの作品です。油絵の経験はなかったので恐る恐る描いていました。 キャンバス上で絵具を混ぜて色や質感を出すことも知らず、パレット上で作った色をキャンバスにこすりつけているだけの絵です。工夫したのは柿を布の上に置いて、平面に変化をもたせて補色の緑色にしたことです。セザンヌの静物画に果物や瓶などと布を組み合わせたものがあり真似したのです。
岩波文庫・クセノフォーン著「ソークラテースの思い出」からの抜き書きです。 「神々は第一に、あらゆる生き物のうちで人間だけを眞直ぐに立たせた。そして直立は前方を一層遠くまで見ることを得しめ、上方にある物を一層よく見ることができるようにし、一層怪我のないようにする。第二に、ほかの匐って歩く物どもには、足という單に歩くことしかできぬ物を與えたのに、人間にはその上に手というものをお授けになり、この手がわれわれを彼らよりも幸福とした一切の物を作り出したのである。さらにまた、あらゆる生き物が舌を持っているのに、ひとり人間の舌のみに、口のいろいろな場所に觸れて音を發し、思うことをなんなりとお互いに傳えられるようにした。〔また性的快樂も他の生き物には一定の季節に局限しながら、われわれには斷續なく、老境に入るまでこれを許してある。〕 類人猿から人類へと進化した要因をソクラテスは明確に述べています。古人類の化石が続々と発掘されているころ激論が交わされていたようですが、古代ギリシャ人ソクラテスにとっては自明の事だったのです。古代中国の論語といい古典の大事さを感じさせます。
2025.01.30
「これ貞観六年孟夏の月。皇帝、暑を九成の宮に避く。これすなわち隋の仁寿宮なり。」
唐の第二代皇帝太宗が皇后とともに仁寿宮に避暑に行き甘美な泉を見出し瑞兆として石碑を建てました。古来楷書の名品として珍重され、現代日本でも「九成宮醴泉銘 欧陽詢」として習字のお手本帳となっています。
左図は、巻頭の一頁をスキャニングし輪郭をなぞって輪郭線のみのデータにしました。それをプリントして下が透ける半紙をのせ書いたものです。
このように実力で書ければいうことはなし。なのですが、電子機器とソフトの力を借りて出来たものです。それでも勉強になるらしいです。字配りとか筆の動きとか名人の息遣いを感じて意義がある。と解説されていたのを見たことがあります。
2025.01.25
顕微鏡の世界では暗視野にすると暗闇の中に光り輝くものが現れます。光の当て方を変えると色変わりの世界も現れます。図はMWS珪藻プレパラートJ297から、そんな色変わりの世界を合成したものです。
ギロシグマ(エスガタケイソウ)じゃないかなと思っているのですが、形も違えば色彩もかなり違って楽しい世界です。左の濃藍から明るい空色への変化は腑に落ちますが、右の青緑から赤に変わるのはビックリものですね。
2025.01.20
モースは大学近くに洋館を作ってもらい授業や講演をし、全国を訪れ多くの人と触れ合いながら研究材料や大学の標本も採集しているので日本の知見は広く深いものがあったようです。そして親日家として知られます。以下は日本の国民性に関する記述です。時は明治10年以降です。地方は江戸時代と同様だったと思います。
晝間通過した村は、いつでも無人の境の觀があつた。小數の老衰した男女や、小さな子供は見受けられたが、他の人々は、いづれも田畑で働くか、あるひは家の中で忙しくしてゐた。これはこの國民が、如何に一般的に勤勉であるかを、示してゐる。人々は一人殘らず働き、みんな貧乏してゐるやうに見えるが、窮民はゐない。我が國では大工場で行はれる多くの産業が、ここでは家庭で行はれる。我々が工場で大規模に行ふことを、彼等は住宅内でやるので、村を通りぬける人は、紡績、機織、植物蝋の製造、その他の多くが行はれてゐるのを見る。これ等は家族の全員、赤ん坊時代を過ぎた子供から、盲の老翁老婆に至る迄が行ふ。(私は京都の陶器業者に、殊にこの點を氣づいた。)
2025.01.15
モースは大森貝塚を発見したことで有名ですが日本滞在記も残しています。1877年39才でシャミセンガイの採取目的で来日し、縁あって東京大学の動物学科の教授になります。図はモースが描いたものでふんどし一丁で働く日本人と貝塚の出土品です。以下はその文章から
日本に着いてから數週間になる。その間に私は少數の例外を除いて、勞働階級―農夫や人足達―と接觸したのであるが、彼等は如何に眞面目で、藝術的の趣味を持ち、そして清潔であつたらう! 遠からぬ内に、私は、より上層の階級に近づきたいと思つてる。この國では「上流」と「下流」とが、はつきりした定義を持つてるのである。下流に屬する勞働者たちの正直、節儉、丁寧、清潔、その他我が國に於て「基督教徒的」とも呼ばるべき道コのすべてに關しては、一冊の本を書くことも出來るくらゐである。
昨今、Youtubeで来日外国人が日本は素晴らしい国だと叫びまわっていますが、今も昔も変わっていないのですね。さすがにふんどし一丁はなくなったとしても。
2025.01.10
28才で描いたF0号の油絵です。子供のころから絵は好きだったのですが、職場の美術部に入って本格的に描き始めたころの作品です。油絵の経験はなかったので恐る恐る描いていました。
キャンバス上で絵具を混ぜて色や質感を出すことも知らず、パレット上で作った色をキャンバスにこすりつけているだけの絵です。工夫したのは柿を布の上に置いて、平面に変化をもたせて補色の緑色にしたことです。セザンヌの静物画に果物や瓶などと布を組み合わせたものがあり真似したのです。
2025.01.05
岩波文庫・クセノフォーン著「ソークラテースの思い出」からの抜き書きです。
「神々は第一に、あらゆる生き物のうちで人間だけを眞直ぐに立たせた。そして直立は前方を一層遠くまで見ることを得しめ、上方にある物を一層よく見ることができるようにし、一層怪我のないようにする。第二に、ほかの匐って歩く物どもには、足という單に歩くことしかできぬ物を與えたのに、人間にはその上に手というものをお授けになり、この手がわれわれを彼らよりも幸福とした一切の物を作り出したのである。さらにまた、あらゆる生き物が舌を持っているのに、ひとり人間の舌のみに、口のいろいろな場所に觸れて音を發し、思うことをなんなりとお互いに傳えられるようにした。〔また性的快樂も他の生き物には一定の季節に局限しながら、われわれには斷續なく、老境に入るまでこれを許してある。〕
類人猿から人類へと進化した要因をソクラテスは明確に述べています。古人類の化石が続々と発掘されているころ激論が交わされていたようですが、古代ギリシャ人ソクラテスにとっては自明の事だったのです。古代中国の論語といい古典の大事さを感じさせます。