12 代 茂久 |
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■久光の中央政治参加と挫折 文久3年12月から元治1年1月にかけて、朝廷参豫会議が成立し、横浜鎖港問題・長州処分等を話し合った。 ・横浜鎖港をめぐる薩摩藩の工作と慶喜・幕閣との対立 参豫諸候のほとんどは開国論であった。中でも久光は積極的で、将軍上落前の参豫集会において、持論(横浜鎖港の中止、武備充実、鎖港交渉使節の派遣中止)を主張し、慶喜に向かって、幕府の方針は「実之鎖港」ではなく、「当座の人気」に阿った「姑息之御処置」だと批判した。慶喜は、自分だけでは決めかねるので、老中にも申し立てるよう答えた(こちら)。 久光は、密かに手を回して、将軍に無謀な攘夷を戒める内容の宸翰が下るように工作した(こちら)。1月15日、将軍家茂が入京した(こちら)。21日に参内した将軍に下された宸翰(内諭)は、久光の出した草稿とほぼ同文だった(こちら)。27日、在京諸候を率いて再び参内した将軍に、さらに宸翰(詔書)が下された。内容は、諸外国に比して日本の武備が不十分であることを指摘して、「妄に膺懲(ようちょう)の典を挙」ることを戒め、武備充実(砲艦整備・摂海防御強化等)を求める一方、天皇の「命を矯めて軽率に攘夷の令を布告し」た三条実美ら七卿及びそれに呼応して「故なきに夷船を砲撃し」た長州藩を断罪するものだが、これも薩摩藩の起草したものだった(こちら)。 ところが、薩摩藩の裏工作は、宸翰に「開港の意味」が含まれることに疑念をいだいた慶喜によってつきとめられた。実は、慶喜は、当初、久光の唱える開国論に同意していたが、将軍の上洛を期に、幕府の主張する鎖港論に転じていた。慶喜の回顧談によると、幕府は、将軍上洛の前に、御前会議にて、決して「薩州の開港説」には従うまいと決めていた。文久3年の上洛時には長州に迫られて破約攘夷を方針とし、今度は薩摩に従って開港になったのでは、幕府には「一貫の主義」がなく、外様藩に翻弄される姿になるのを嫌ったのだという。老中が、薩摩の説に従うなら辞職すると言い出し、将軍も老中と同意見だというので、やむなく幕府の鎖港論に同調したという(こちら)。 2月2日、参豫諸侯・幕閣が集まった二条城会議において、久光は、幕府が方針とする横浜鎖港は「不策」だとの持論を主張した。春嶽・宗城も同調したが、老中は「一々御尤至極」だが「尚篤と考案の上御相談」したいと述べるだけだった(こちら)。結局、久光が折れることになり、不本意ながら、横浜鎖港は交渉使節帰国までの鎖港を是として当面は幕府に任せることになった(こちら)。 2月14日、将軍は参内して宸翰(1月27日の詔書)に対する請書を提出したが、破約攘夷については横浜鎖港に限定しており、その見込みについては、既に外国へ使節を派遣したものの外国の事情は予測し難い、とする曖昧なものであった(こちら)。2月15日の朝議(朝廷参豫会議)では、請書の文面が曖昧だとの苦情とともに、中川宮から横浜急速鎖港の沙汰書が示された。久光らは急速鎖港は「無謀」だと反論したが、慶喜の主張によって、幕府に持ち帰って相談の上、明後17日に請書を出すことになった(こちら)。 ところが、2月16日、中川宮が薩摩藩士を呼び出し、昨日の朝議(急速な横浜鎖港)は「全く一時之拠なき都合」であのようになった、「アレ(=急速鎖港の沙汰書)ハ偽りニ尽見消シニ致」すよう命じたと言い出した。その真意を確認するために、久光は慶喜・春嶽・宗城と一緒に中川宮を訪問した。慶喜の詰問に対し、中川宮は偽りとはいっていないと否定した。慶喜は激論の果て、朝議がとかく変化するなら宸翰を願い出ても無益だから、幕府の方から断然鎖港の請書を別途提出すると言って退出した。その流れで、本来開港派の春嶽・宗城・久光も、横浜鎖港不可の矛を収めざるをえなくなった。席上、 慶喜は、中川宮が薩摩藩を信用し、その「奸計」に欺かれているから、「異同」が起こるのだと難詰し、さらに「暴論」ついでとして、春嶽・宗城・久光の3名を「天下之大愚物・天下之大奸物」と評し、中川宮に彼らを信用せぬよう言い放ったという(こちら)。両日の出来事は、参豫諸候内の分裂(慶喜vs春嶽・久光・宗城)を決定的なものとした。2月18日、幕府は横浜鎖港の請書(鎖港使節の成功と使節帰国までの武備充実)を別途伝奏に提出し、春嶽・宗城・久光は連署で請書に異存ない旨の意見書を提出した。 ・長州処分をめぐる朝廷の優柔不断への失望 長州処分については、前年末、長州藩に幕府から借用していた蒸気船を砲撃・沈没させられていたこともあり、久光は、将軍滞京の上の征長軍派遣か藩主父子の大坂召喚という強硬論を主張した(こちら)。2月8日、関白二条斉敬邸に、朝廷・幕府・参豫の主だった者が集まり、(1)長州支藩及び家老の大坂召喚及び訊問、(2)三条実美らの京都還送、(3)違背すれば征討を決定、の3点が決まった(こちら)。この結論を踏まえ、幕府は征長部署を決定し、2月11日に、関連諸藩に内意を通達した(こちら)。2月24日の朝議(朝廷参豫会議)では、長州藩末家・家老・吉川監物の3名の大坂召喚が決定され(こちら)、25日には朝・幕から召命が出された(こちら)。ところが、その後、長州に同情的な諸候から、朝廷の沙汰による召喚なら長使を入京させるべきだとの意見書が出され(こちら)、召喚場所をめぐって朝議は動揺した。朝廷は、長使入京の可否について、参豫諸侯に内々に下問した。春嶽・宗城・久光(+容保)は、大人数を率いての入京になれば朝議が動揺し、禁門の政変以前の形勢に戻る恐れがあるとみて、入京に反対したが、朝廷は決断できず、2月29日、大坂召喚の沙汰を一時見合わせた上で、改めて朝議を開いて「衆議」をきくことを決めた(こちら)。久光は失望した。 ■久光の帰国 3月2日、4日、5日と参豫が召集されたが、久光は、病を理由に朝議を欠席した。3月5日、朝廷は、朝議に先立って開かれた幕議の結論を踏まえ、大坂召喚を改めて決定し、長州藩に通達した(こちら)。この日の朝議に参加した参豫は春嶽だけであり、事実上、朝廷参豫会議は崩壊した。3月6日、久光は参豫辞退・帰国許可を内願した。3月9日、慶喜は自らと他の参豫諸候(春嶽・久光・宗城・容保)の辞表を二条関白に提出し(こちら)、3月半ばに御役御免になった。さらに、久光(と宗城)は、3月17日、朝議参豫御免を理由に御用部屋入りを辞退した。こうして薩摩藩の推進した有力諸侯を交えた公武合体運動は頓挫した。久光は小松帯刀や西郷隆盛(3月14日上京。軍賦役)らに後事を託して4月18日に退京した(5月8日鹿児島着)。既に容堂・宗城は退京しており、4月19日には春嶽も退京した。前年の8.18政変後に公武合体をめざして上京した有力諸侯は、皆、朝廷と幕府の双方に失望し、自ら京都を去ってしまった。 一方、慶喜は、参豫辞退後の3月25日、将軍後見職を辞し、自らの希望で、朝命により、新設の禁裏守衛総督・摂海防御指揮に就任した(こちら)。参豫諸侯がすべて退京した翌日の4月20日、参内した将軍に対して、諸政委任の勅書が下され、有力諸侯抜きの公武合体体制が実現した(こちら)。将軍は横浜鎖港成功の確約ともに東帰を許可され(こちら)、5月7日に退京、大坂から海路江戸に戻った(20日着)。京都には、慶喜(総督・指揮)、容保(守護職)、桑名藩主松平容敬(所司代)、及び稲葉正那(老中)が残った。 関連:開国開城27「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」 ■禁門の変 将軍及び諸候退京後、京都では再び長州系勢力の動きが活発になった。6月5日、三条小橋の池田屋に会合していた長州藩士らが会津藩指揮下の新選組に踏み込まれ、大量に斬殺・捕縛される事件が起った(池田屋事件)。この事件は、既に進発論で固まっていた長州藩を刺激し、長州藩兵は続々と東上、6月下旬以降、京都近郊に屯集して、朝廷に藩主父子の免罪嘆願を嘆願した。 久光は、退京に際して、薩摩藩は「禁闕御守衛一筋」に動くよう命じていた。在京薩摩藩(小松帯刀・西郷隆盛)は、当初、久光の「遺策」に従い、事態を静観(傍観)していた。6月24日には、幕府から淀警衛の出兵を要請されたが、藩兵が御所守衛の任にあることを理由に断った(こちら)。この「戦争」は会津と長州の「私闘」であり、「無名の軍」を動かす場合ではないとみたからだった(こちら)。 6月27日、長州勢が京都に押し寄せるとの噂が流れると、会津藩兵が御所に入って九門が閉鎖され、薩摩藩を含む諸藩が九門警備に動員される大騒動になった。この日、在京薩摩藩は、征討の勅が下れば長州と戦うこともやむなしと方針を転換し、国許に援兵を要請した。長州の目的が前年の8.18政変前の状態に戻すことであると判断し、公卿の過半数が長州に荷担の様子であるため、このままでは薩摩藩が「打ち崩」されると危惧したからだった(こちら)。 長州と戦う覚悟を決めたが、在京薩摩藩は、朝命による出兵にこだわった。 7月1日、小松は、朝廷から長州処分を委任された慶喜に呼び出され、長州が撤兵しなかった場合の援兵を打診されたが、藩兵は御所守衛のために置いているので慶喜の命では動かせないと断り、朝命があれば出兵すると回答した。また、会津からの出兵依頼も、御所守衛に必要な人数しかいないとして断った。7月3日には長州撤兵の朝命が出されたが(こちら)、幕府の撤兵周旋依頼には応じず、十人程度の守衛兵派遣要請も断った。征長の勅命を奉じた上で「長賊を駆尽」す機会を待っており、勅命が出ないうちは「会津の一手を以て打ち破る」べきだと考えていたからだった(こちら)。 ところが、7月中旬に国許から藩兵が到着すると待ちの姿勢を転じ、長州追討に向けて、諸藩(会津を除く)と連携して動き始めた。7月15日には、土佐藩・久留米藩・越前藩等の諸藩会合に参加し、「長州征討」の方針を話合った。同じ日、薩摩藩士吉井幸輔、土佐藩士乾市郎平、久留米藩士大塚敬が議奏正親町実徳邸を訪ね、長州の嘆願を許可せぬよう、家臣に言い残した。三名は、議奏正親町三条実愛邸も訪ね、長州の処置は「追討之外無」いことを家臣に伝えた(こちら)。翌7月16日には、薩摩藩が諸藩会合を主宰し、同じ日、薩摩・土佐・久留米藩士が中川宮を訪ねて「速ニ御勇断」するよう求めた(こちら)。翌17日にも土佐・久留米・越前等と会合し、長州を「速ニ討伐シ禍根を絶ツ」ことを決定すると、各藩は手分けして、中川宮・山階宮・近衛家・一橋慶喜・老中等を訪問し、「速ニ討伐之勅命」を下すよう入説した。同夜、朝議が行われ、結果、長州勢に7月18日期限の撤兵の朝命を伝達し、奉じない場合は追討と決した(こちら)。7月18日、朝廷は長州藩留守居役を呼出して撤兵を命じ、慶喜は長州勢に備えて諸藩の留守居役を呼び出して出兵を命じた。在京薩摩藩はようやく出兵を承諾し、嵯峨・天龍寺方面に兵を派遣した。一方、京都近郊に布陣する長州勢は、既に容保討伐を名義とした洛中への進軍を決定しており、18日夜以降、順次進軍を開始した。7月19日明け方、朝廷は長州追討令を出したが、そのときには既に御所近辺で戦闘が始まっていた(禁門の変)。薩摩兵も応戦し、長州勢は1日で敗走した(こちら)。 関連:開国開城(29)長州藩の東上と禁門の変(蛤御門の変) ■第一次幕長戦争と長州恭順周旋 7月23日、朝廷が長州追討を命じると、幕府は、西国諸藩に出陣を命じた。征長総督には前尾張藩主徳川慶勝、副将には越前藩主松平茂昭が就任した。薩摩藩は萩進攻の一番手を割り当てられ(こちら)、西郷は薩摩藩を代表して総督参謀に就いた。10月22日、大坂城で軍議が開かれ、11月11日の布陣完了・18日の攻撃開始が決まった(こちら)。 当初、西郷は、「朝敵」となった長州の追討に積極的であり、将軍が上洛して征長の指揮を取ることを切望していた(こちらやこちら)。9月7日の大久保宛の手紙で、長州は「狡猾」なのでどんな企みがあるかわからない、是非とも兵力を以て迫り、長州が降伏を乞えばわずかな領地を与えて東国へ国替を命じねば、将来的に薩摩藩に災厄となる可能性があると、対長州強硬意見を述べている(こちら)。また、9月11日には、吉井幸輔や越前藩士青山三郎らとともに、当時上坂していた軍艦奉行勝海舟を訪ねて将軍上洛周旋を要請した。ところが、勝は、幕府の内情を明かして尽力のしようがないと断り、諸藩の周旋についても無益だと述べた(こちら)。その後、長州藩の内訌の情報を得た西郷は、内訌を利用して長州藩と末家との離間工作を行った上で攻め込む考えに転じた(こちら)。長州末家である岩国へは高崎五六が密行した(こちら)。高崎は、薩摩藩は長州に「私怨」はなく、会津は見放したと告げ、雄藩連合による皇国挽回のため、是非恭順周旋に尽力したいと申し入れ、領主吉川経幹から周旋依頼を取り付けた。西郷は10月8日の大久保宛の手紙で、長州が壊滅すれば幕府が勢いを増して薩摩藩に不利益が生じる可能性を危ぶみ、末家を利用した恭順周旋を行ったと知らせている(こちら)。 10月24日、西郷は、征長総督徳川慶勝に謁し、持論である長州内訌利用策を主張し、本音では避戦を望んでいた慶勝の賛同を得た(こちら)。西郷は、吉井幸輔・税所篤、尾張藩士若井鍬吉とともに、総督密使として芸州へ向かい、11月4日、岩国で吉川経幹と会見して、禁門の変を指揮した長州三家老の処刑及び「激徒」の処分を急速に行うよう勧めた(こちら)。結局、西郷の思惑通りに進んで長州は恭順し、12月27日、慶勝は、出征諸藩に撒兵帰休を命じた(こちら)。 ■朝廷と幕府の離間策 |
(文久3年) (慶応1年)
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