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守護職会津藩 かけあし事件簿元治1年 (容保:数え30歳)


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関連:守護職日誌(詳細年表):元治1

容保の征長副将就任・軍事総裁職転任と守護職再任

○征長副将任命・守護職から軍事総裁職への転出
文久3年12月から翌元治1年1月にかけて、朝廷参豫会議が成立し、1月15日の将軍再上洛(こちら)後も、参豫諸候は幕政参加・横浜鎖港・長州処分などについて話し合った。(ただし、容保は、朝議参与豫会議にはほとんど出席せず、参豫諸候の集会にも最初に出席しただけだった)

元治1年2月10日、参豫諸侯は、慶喜・幕府と評議の結果、長州処分((1)長州支藩及び家老の大坂召喚及び訊問、(2)三条実美らの引渡し、(3)不服従の場合征討)を決定した(こちら)。幕府は、2月11日、長州不服従の際の征長部署を発表し、容保は征長副将に任命すると同時に守護職から新設の陸軍総裁職(後、軍事総裁職に改称)への転任を命じた(こちら)。軍事総裁職は陸海軍奉行・後部所奉行・三番等以下軍職を統括する職である(こちら)。幕府は、さらに、2月13日、容保に日々登城・御用部屋入りを命じた(こちら)。(病床にあったためか、出仕はしなかった)。

容保の後任には、2月15日に春嶽が任命されたが、 春嶽は、守護職の任務は幕議が「因循」では務められないと考えた(こちら)。春嶽は、参豫の御用部屋入りによる「政体の一新」(有力諸侯の幕政参加の制度化)を求め(こちら)、16日に実現した。ところが、朝廷参豫会議は、慶喜と他の参豫諸侯(特に春嶽・宗城・久光)の意見対立と感情の疎隔によって急速に崩壊して、3月半ばに全員が御役御免になり、17日、久光・宗城は、参豫御免を理由に御用部屋入りを辞退したため、幕政改革は頓挫した。

○孝明天皇(+二条関白)の守護職人事への圧力
容保に信頼を寄せる孝明天皇は、容保の守護職解任・春嶽の就任という人事に不満であり、容保に守護職復帰を要請する宸翰をひそかに与えた(こちら)。また、天皇の意を受けた二条斉敬関白は、2月24日、慶喜に対し、容保の守護職復職の沙汰を伝えた(こちら)。容保の復職がなかなか実現しないと、3月9日、参内した慶喜をつかまえて、理由を問い詰めて圧力をかけ(こちら)、3月半ばまでには、幕府に春嶽の守護職解任の沙汰を伝えた(こちら)。 越前藩も、旧態依然とした慶喜・幕閣への失望感から、3月13日に春嶽の守護職辞任・帰国を内決し(こちら)、17日、辞職の内願書を幕府に提出した(こちら)

○慶喜の禁裏守衛総督就任への懸念と会津藩の守護再任への抵抗
元治1年3月18日、二条関白は、会津藩に対し、容保の早期の復職を強く促した。ところが、会津藩は、国力疲弊につながる守護職復職を歓迎せず、容保の病を口実に復職を辞退を周旋することを決定していたため(こちら)、容保の病回復までは返答を保留することにとした(こちら)。そうしているうちに、3月24日、朝廷は幕府に対し、慶喜を禁裏守衛総督・摂海防御指揮に、会津・越前両藩に守護職を命じるよう通達し(こちら)、慶喜は3月25日に総督・指揮に就任した。すると、会津藩は、慶喜の総督・指揮就任への懸念もあり、3月28日、容保の軍事総裁職辞任・守護職再任辞退を幕府に内願した。慶喜の総督就任により、実の兄弟が藩主であり、長州シンパの鎖港攘夷派である因幡・備前両藩等が影響力を強め、彼らの入説によって長州処分が寛大になり、いずれ長州藩が入京することになって、文久3年の8.18政変後の体制が覆り、会津に不利になるのではないか、との懸念を抱いていた。また、慶喜の気質を考えたとき、慶喜が守護職の「上官」になったのでは、復職しても以前のような精忠を尽くせないと感じていた(こちら)。一方、春嶽/越前藩は、留任を受け入れず、朝幕に辞職を許容するよう働きかけた。慶喜を掣肘するために春嶽の留任を望んでいた中川宮らも、3月末には春嶽の留任を断念した(こちら)。その結果、朝裁を経て、4月7日、幕府は、春嶽の守護職解任と容保の軍事総裁職罷免・守護職復職を命じた(こちら)。会津藩は、容保の守護職辞表や家老の請願書の提出をもって、しばらく抵抗を続けたが、これらは全て却下され、逆に「篤と療養差加、病気快癒罷候はば出勤」するよう命じられた。進退窮まった容保/会津藩は、終に、4月22日、再任を受け入れ、約50日ぶりに守護職に復帰した(こちら)

〇容保弟(桑名藩主松平定敬)の所司代就任
会津藩が容保の守護職復帰を固辞し続けていた頃、幕府は、桑名藩主松平定敬(容保弟)を京都所司代に任命した。将軍は特に定敬を召して、容保と協議・尽力せよと命じたという(こちら)

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◆禁門の変

〇池田屋事件と長州藩の東上
朝廷参豫会議が崩壊し、元治1年4月上旬以降、久光・春嶽・宗城等諸侯が相次いで帰国した。5月上旬には将軍も東帰のため、江戸に向かい、京都の幕府側要人は慶喜・容保・定敬(一会桑)と老中稲葉正邦が残るだけとなった。尊攘急進派は息を吹き返して、テロ・落書が横行し、国事御用掛に親長州の有栖川宮等が任命された(こちら)。長州が会津藩を標的として大挙上京し、天皇奪取を計画しているという風説も起った(こちら)。急進派は、京都の政治を昨年の8月18日の政変前に戻すことを計画していたが、6月5日にその同志の古高俊太郎が捕縛されて、計画が露顕した。さらに、善後策を話し合うために三条小橋の池田屋に会合していたところを、会津藩指揮下の新選組に踏み込まれて、大量に斬殺・捕縛された(池田屋事件こちら)。池田屋一報を受けた長州藩は、既に上京論で定まっていたこともあり、世子及び三家老の急速上京を決定した。長州勢は、6月下旬から、兵を率いて続々と京都周辺に到着し、京都を取り囲むように山崎・嵯峨・伏見に布陣し、藩主父子の雪冤を訴えた。

〇会津藩を標的にした禁門の変と孝明天皇の容保擁護
元治1年6月27日、京都に長州勢来襲の噂が起こり、容保は藩兵とともに急いで御所に入るとそのまま宿陣し、九門を閉鎖して御所の警備を固めた。朝議が行われ、中川宮や容保は即時討伐を訴えたが、慶喜は討伐尚早・撤兵勧告を論じ、結局、慶喜の論で決着した(こちら)。朝廷は、慶喜に諸事委任の朝命を下し、孝明天皇は慶喜に長州入京不可と容保擁護の宸翰を下した(こちら)。慶喜は、長州側に朝命を伝えて繰り返し撤兵勧告を行ったが、長州勢は偽の朝命だとして聞き入れず、幕閣・諸藩・公卿に頻りに説得工作を行った。長州勢が標的としたのは8.18政変で長州失脚のきっかけを作った会津藩だった。親長州公卿は、長州の標的となった容保を九門外に出すよう運動をした。長州勢も、その頃頻りに噂された天皇遷幸説の出処(※会津藩想定)糾明を求めた(こちら)。

7月18日夜、長州勢は、容保を弾劾し、洛外追放・長州による天誅を求める上書を諸藩・所司代に送致するとともに、順次進発を開始した。同じ頃、長州と呼応した有栖川宮と親長州派公卿が急遽参内して容保追放を主張したが、容保を支持する孝明天皇は、二条関白・中川宮ら公武合体派、さらに慶喜を召し出してこれに対抗した(こちら)。7月19日未明、伏見で大垣藩が長州勢と戦闘に入ったことを知った慶喜は、急遽孝明天皇に謁し、長州追討の勅許を得た。長州勢が朝敵とみなされることが確定した一方で、親長州派の主張する容保の追放については、慶喜も強硬に反対したため、実現しなかった。その後、容保ら在京幕府要路、諸侯が藩兵を率いて続々参内し、慶喜の指揮の下、御所の警衛についた。明け方以降、長州勢が御所周辺に達し、築地内外で御所守衛の諸藩兵との間で交戦になったが、激戦の末に敗走し、戦闘は一日で終結した(こちら)。 続いて洛中・外の残党追討が行われた(こちら)。双方が大砲を使い、また火を放ったため、京都は数日間大火になった(どんどん焼け)。この戦いで長州は「朝敵」となり、7月23日には長州藩追討の朝命が慶喜に下された(こちら)。会津藩は、京都守護職という職掌もあり、征長諸藩には含まれなかった。

〇慶喜との関係改善
前述の通り、会津藩は慶喜の総督・指揮就任に懸念をもっており、それが守護職再任のネックになっていたほどだった。長州の西上後、即時討伐を主張する会津藩に対し、慶喜は討伐尚早・撤兵勧告を主張しており、禁門の変前には両者の関係は悪化していた。7月17日には、長州との戦闘に備えて九条河原に布陣中の会津藩士と新選組が、討伐に慎重な慶喜を「優柔不断で大事を誤る」として、宿舎に乱入して「暴挙」に及ぼうとし、容保の使者・公用人に止められるという騒ぎが起こった。同じ日には、容保も、撤兵説得を続ける慶喜批判の書を異母兄・前尾張藩主徳川慶勝に送り、慶勝の上京を促した(こちら)。慶喜も、後年、「会津の討ってしまえという論はなかなか激しいことだったよ」と回想している。しかし、慶喜は、7月18日から19日の容保追放の朝議において、慶喜は容保を断然擁護して追放に反対し、また、撤兵の最後通告に従わずに進軍してきた長州勢に対しては、御所の戦闘を指揮して、獅子奮迅の活躍をみせた。両者の関係は、劇的に変化し、禁門の変の残党追討が一段落ついた7月23日、容保は、江戸の老中に禁門の変・長州追討令を報じる際、慶喜の「尽力」に言及している(こちら)。慶喜も、容保に対して朝命を心得のために伝達するなど、関係が改善し、以降、公武の融和に向けて協調した行動をとるようになった。

関連■開国開城「長州藩の東上と禁門の変(蛤御門の変)」 ■テーマ別元治1「池田屋事件、長州入京問題、禁門の変

◆禁門の変後

〇一会桑の連携
禁門の変を契機に関係が強化された一会(桑)は、孝明天皇の信頼の下、二条関白・中川宮と結びつき、朝廷と幕府の融和促進をはかった。一会桑は速やかに将軍が上洛し、「朝敵」となった長州追討の指揮をとることが、朝廷尊崇・幕威回復になると考えた。8月上旬に将軍の急速上洛を促す使者(会津藩は公用人野村左兵衛・公用方広沢富次郎)を送った(こちら)。また、四国艦隊が下関を攻撃する前に長州を追討すべきだとも訴え、下関戦争後は、四国艦隊の早期長州退去を促すよう求める使者(会津藩は公用方柴秀治)を送った(こちら)。幕府が外国の力を借りて長州を討とうとしているという噂を危惧したためである。、8月下旬には、朝廷も人心に障りがあるとして将軍の急速上坂を命じた(こちら)ので、一会桑は朝命遵奉・将軍上坂を督促した(こちら)。征長軍進発後に、11月に将軍上洛督促の勅使東下の朝議が起ると、会津藩は幕府に朝議を知らせるとともに、戦争終結前の将軍急速上洛を督促し、公用人小森久兵衛を使者として送った(こちら)。また、征長総督問題については、徳川慶勝が就任を固辞し続けたため、肥後藩・会津藩・桑名藩の間で慶喜を総督にして速やかに征長を行うべきだとの論が起り(こちら)、会津藩・桑名藩が尾張と江戸に使者を遣わし、慶勝と幕府に周旋を行った。

〇江戸幕府首脳による忌避
ところが、同じ時期、江戸の幕府首脳は、参勤交替の復旧など幕権回復志向を強めており、京都や諸藩の政治介入を極端に忌避していた。8月下旬に柴秀治が京都に報告したところによると、江戸は京都とは「一体気候違居、兎角御因循」であり、慶喜は「存外御疑被居候振合」だった。幕府首脳は、幕府の威権が近年の言路洞開によって損なわれたという考えから、「大塞蔽之極」になっており、「御役人御逢無之」、また江戸詰の藩士に対しても幕議の内容を「近頃は何も御洩無之」という状況だった(こちら)。8月6日に着府した野村左兵衛も老中に1カ月近く会えず、9月9日、ようやく会えた老中本庄宗秀・老中格松前崇広は左兵衛の言葉が「御心に入候様子」がなく、征長総督に慶喜を推したところ「御腹立之御様子」だった(こちら)。しかも、諸藩からは、老中達はが左兵衛らが「あまりに迫った」ことをひどく嫌い、その後登城して大小監察へに周旋することもうるさく思われているため、周旋を控えて「天下の公論」に任せるよう申し入れを受けるありさまだった(こちら)。左兵衛は、結局、役目を果たせぬまま、容保の親書をもって東下した小森久太郎と入れ替わるように帰京した。その小森も、京都の事情をどれだけ説明しても幕府首脳に応じてもらえなかった。それどころか、その頃には、会津藩は、幕府から、慶喜と共に「京都方」だとみなされ、敵視されていた(こちら)。一会桑を京都から江戸に呼び戻す幕命が出される可能性も噂されるほどだった(こちら)。11月下旬、在京会津藩は、容保自身の東下によって事態を打開をしようと考えたが、これは慶喜に止められたという(こちら)

〇慶喜不在時の老中松前崇広の率兵上京
元治1年12月15日、慶喜が天狗党追討で京都を不在にする中、老中松前崇広が京都警衛の名目で率兵入京した(こちら)。容保は、二条関白・中川宮と連携し、定敬ととも将軍進発を促進するための東帰を説得した(こちら)。この結果崇広は、江戸にいたときの「京都方」への見方を変え、容保・定敬に将軍進発への尽力を誓い(こちら)、24日に退京・東帰した(こちら)

■テーマ別元治1「一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ

参考:リンク先を参照してください)<更新:2018/10/7>

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