コアラの年図

僕のこれまでの歩みについて、ふりかえってみました。とりあえず、退職後の時期から順に、遡ってみます。
★西高津中・退職後時代を一応完成。NEW!07.3.10
★柿生中時代・大学時代を一応完成。NEW!07.3.12
★一部訂正と2007年以後の動きを追加。NEW!15.2.1
★2015年中の動きなどを追加し、古田氏との出会いなど一部訂正。NEW!15.11.8
★2016年と17年の主な活動記録を掲載。NEW!17.4.20
★2017年の主な活動記録の追加と2018年の年当初の活動を掲載。NEW!18.4.15
★2018年の活動の追記と2019年当初の活動を掲載。NEW!19.3.19
★2018年〜19年の訂正補足と20年以後の活動を掲載。NEW!21.2.6
★21年22年の活動を補足掲載。NEW!228.14
★誕生から大学入学以前を補足掲載。
NEW!22.8.21

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誕生から大学入学以前
年次 学業その他 趣味・その他 世の中
1950年(0歳)

@泰久・新の長男として誕生。住所は小田原市中島の借家。

  E朝鮮戦争勃発
H国連軍仁川上陸
I国連軍38度線突破⇒平壌占領・中国人民解放軍参戦
J中国軍平壌奪還
1951年(1歳) G横浜市鶴見区諏訪坂の社宅に転居。   @中国ソウル占領
F朝鮮休戦会議開催
Hサンフランシスコ対日講和会議
1952年(2歳) E弟誠治誕生   Jアメリカ水爆実験成功
1953年(3歳)     F朝鮮戦争休戦協定調印
Gソ連水爆実験成功
1954年(4歳) B幼稚園入園試験に落ちる
E
二か月遅れて幼稚園(若葉幼稚園)入園
H
妹裕子誕生
  B第五福竜丸ビキニの水爆実験で被爆
F自衛隊発足
1955年(5歳)     I左右社会党統一
J保守合同自由民主党誕生
1956年(6歳) C小学校入学(横浜市立豊岡小学校)
H父が三重工場に転勤
J三重県三重郡朝日町の社宅に転居。朝日町立朝日小学校に転入。

Jすでに社宅を購入し子ども部屋増築も進んでいたのに完成を見ずに転居。子ども部屋幻となる。
Aソ連スターリン批判開始
Iハンガリー事件
1957年(7歳) C小学2年生となる C近所(社宅内)の書道塾に通い始める (6年夏休みの転校まで続ける)。 BEEC発足
Iソ連人工衛星スプートニク打ち上げ
1958年(8歳) C小学3年生となる この頃だろうか。24インチの自転車を乗りこなそうと練習中に道路の真ん中に置かれていた三輪車に衝突。転んだ拍子に三輪車の持ち手のカバーが外れていて、鉄パイプがむき出して、私の足の太ももをえぐる大けがをした。 @アメリカ人工衛星打ち上げ
1959年(9歳) C小学4年生となる
C
上の社宅に転居(父が管理職となったため)
H伊勢湾台風に遭遇 。家は高台にあるので瓦が吹き飛ばされただけで無事。 @キューバ革命
1960年(10歳) C小学5年生となる   E安保改定阻止闘争
1961年(11歳) C小学6年生となる
H父が川崎の本社に転勤。横浜市港北区日吉本町の社宅に転居。横浜市立日吉台小学校下田分校に転校
J父が川崎市多摩区長尾の社員向け分譲住宅を購入。




K校内マラソン大会の練習中坂道で転んで顔面を道路に埋まっていた大きな石で殴打。メガネのプラスチック製の鼻宛がそのまま眉間に突き刺さる。幸い失明は免れる。
 
1962年(12歳) B小学校卒業。川崎多摩区長尾に転居。
C中学1年生となる。川崎市立稲田中学校入学

C書道部入部(第一志望は美術部。第二となったと勘違いして書道部へ。美術部にも3年間籍は有り)
D子ども部屋を増築。弟と半分ずつ。
F音楽の夏休み宿題(クラシック音楽を10曲以上聞いて感想を書く)のためFMラジオチューナーを購入。
H100曲以上聞いて感想を提出。以後クラシック音楽にはまる。
K父がステレオを購入し 、会社の売れ残りのレコードを多数もらってきてくれる。
 
Iキューバ危機
1963年(13歳) C中学2年生となる。   Jアメリカケネディ大統領暗殺
1964年(14歳) C中学3年生となる。 C書道部部長となる。
I文化祭でリード合奏と混声合唱に参加。
Gアメリカ空軍北ベトナム爆撃開始
1965年(15歳) B公立高校を受験。当日高熱。中学校を卒業
C神奈川県立川崎高等学校入学。高校1年生となる。
A市の書道展に奨励賞入賞。
C
音楽部弦楽合奏班に入部(本当は美術部入部予定。隣の音楽室から聞こえるバイオリンの音に魅了される)。バイオリンを始める(第二バイオリン)。父がバイオリンを買ってくれる。
I文化祭クラス参加。「アメリカナイズされた日本」を調査し展示。
Cベトナムに和平を!市民文化団体連合(べ平連)初のデモ
1966年(16歳) C高校2年生となる。 C3年生が部活を引退。部活の中心となり弦楽合奏曲のレコードを買いあさり、演奏を工夫。
I文化祭クラス参加。お化け屋敷。
K建国記念日2月11日に決定
1967年(17歳) C高校3年生となる。 C3年生となり部活引退のはずだったが弦楽合奏班は3年生全員居残り。合奏コンクールなどに挑戦。
H体育祭仮装。教科書への神話掲載に反対し、巨大なヤマタノオロチを制作。オロチとスサノオの戦いの最中にデモ隊が乱入しオロチを破壊。
I文化祭クラス参加。模擬裁判「英霊が小市民を裁く」。明治ー昭和の戦争を聖戦と呼ぶ日本史教師に反発し、クラスで授業ボイコット。
E家永教科書訴訟
F
EC成立
 
1968年(18歳) A大学受験(都立大・上智大)失敗。
B高等学校卒業
C浪人生活開始・横浜反町の予備校に通う。

B九州旅行(長崎)・ステレオを買い替えてもらう。
C反射式の天体望遠鏡を自作。以後天体観測に没頭。
 
@米空母エンタープライズ佐世保入港
D
小笠原返還
F東大安田講堂占拠
Gプラハの春
I国際反戦デー新宿騒動
 アメリカ北爆停止
K府中三億円強奪事件
浪人・大学・就職浪人時代
年次 学業と学生運動 研究活動など 趣味・その他 世の中
1969年(19歳) A大学受験(横浜国大・立教大・中央大・国学院大)。第三第四希望は合格。
C
国学院大学文学部史学科東洋史専攻に入学。
中央大学にも合格していたが学園闘争で全学ロックアウトのため国学院を選ぶ。
講義では、西田長男氏の「神道社会学」に感銘をうけ、マックス・ウェーバーの著作を読みふける。史学入門ではE・H・カーの「歴史とは何か」を輪読。英語ではブルクハルトの「ルネサンス論」を翻訳する。どちらの書からも大きな刺激を受ける。東洋史史料解題では石田幹之助氏から史料批判の重要さを学ぶ。
図書館にこもって東西文化交流史を研究。
大学法制定阻止のための全学ストを目指す自治会執行部と対抗するためにマルクスの研究をはじめ、自治会を握る党派のマルクス理解が間違っていることに気付く。マルクスの著作に読みふける。とくにフランス三部作の現代史分析の鋭さに感銘。史的唯物論を学び始める。
K〜@マルクス「資本論」読了。トロツキー「ロシア革命史」読了。マルクスの描く資本主義の未来像が現代そのものであることに驚嘆。
大学浪人時代以来、天体望遠鏡で天体観測にふける。
大学入学後渋谷のヤマハ楽器で木製のアルトリコーダーを購入。一人練習にふける。
4.28沖縄デー・10.21国際反戦デー闘争激しく行われる。
1970年(20歳) C大学2年。
講義では西洋史の「フランス、アンシャン・レジーム史」に感銘を受ける。
第二外国語のドイツ語では、ニーチェの「ツァラツストラはかく語りき」に取り組んだが余りのニヒリズムに辟易。
街頭デモに参加したが周りの市民との落差に疑問を持つ。
図書館や本屋で本を探して、世界の革命史を研究(市民革命:イギリス・フランス・日本。社会主義革命:ロシア・中国・キューバ)。社会主義革命だけ社会革命が先行しないことに疑問を持つ。
高校闘争の最中にあった弟から党派の公教育批判のパンフをもらい熟読する。
  福岡伝習館闘争始まる
1971年(21歳) C大学3年
自主サークル「教育を考える会」を立ちあげ、歴史教科書批判などを行う。自治会館で討論中に会館を占拠し執行部襲撃した右翼学生に襲われたが反撃して逃れる。
学費値上げ阻止闘争にかかわり、自治会代議員に友人と立候補。史学科代議員を独占。しかし左右の党派の対立で何もできず。以後ゼミ設置運動に携わる。
講義では東洋史演習で「大唐西域紀」翻訳に取り組み、史料解読の面白さを知る。
中国革命にかかわり、トロツキー・スターリン・毛沢東の路線の比較検証を行う。トロツキーの戦略が破綻した理由を考える。
べ平連運動を知り、鶴見俊輔の主催する「思想の科学」を定期購読はじめる。鶴見の転向研究に触発される。
福岡伝習館闘争に出会い、公教育のありかたについて考える。
金達寿著「日本の中の朝鮮文化」と北朝鮮科学院の「古代朝日関係史−大和政権と任那ー」に出会い、古代朝鮮諸国家の植民国家が日本の始まりという説に驚く。
三里塚農民の戦いは私有財産をも奪う国家に対する民主主義闘争とする本に出会い、国家の代表する公共の福祉とは何かと考える。
友人と講義をサボッてあちこちの美術館・博物館めぐりを行う。 米国防省ベトナム秘密文書暴露・沖縄返還・ドルショック
1972年(22歳) C大学4年
何にするか迷っていた卒論テーマを「古代日朝関係史研究史上の諸問題」に決定。考古学を初めとした古代史研究書にあたり、研究者がいかに皇国史観に侵されていたかを論じる。
古代史研究の研究史の検討を通じて、明治維新についての研究をはじめる。
ドイッチャーの著作に出会い、トロツキーの詳しい伝記と反対派活動・ロシア追放以後のFI建設の歴史を知る。
朝鮮史研究会で高句麗広開土王碑文をめぐり李氏と古田氏の激しい論争に目を見張る。10月に刊行された李氏の「広開土王陵碑の研究」を精読し、古田氏の指摘が正しいことを確認し、古田氏の古代史研究に注目。
  明日香で高松塚壁画古墳発見される。
連合赤軍浅間山荘事件
ニクソン訪中・田中訪中・日中国交回復
1973年(23歳) C大学卒業・高校を4県受けたが就職できず浪人。
大学の聴講生となり週1日登校。図書館に通う。向ヶ丘遊園の書店でアルバイト。
@大学の友人と卒業合宿「七支刀の性格」についてレポート。

この頃、古田武彦氏の研究に注目し、1971年刊の「『邪馬台国』はなかった」 を購入。古代史を根本的に見なおす業績に感銘。自分も史料を検討して古田氏の見解が正しいと確信。以後氏の著作はほとんど読み大きな影響を与えられる。
自由民権運動・大正デモクラシーの研究をする。
  ベトナム、パリ和平協定調印・第4次中東戦争・第一次オイル・ショック
1974年(24歳) B川崎市の教員採用試験に合格するも採用が決まらず、高校非常勤講師の道も探る。運良く柿生中に空きが出て、中学教員になることができる。 @〜A色川大吉著「新版明治精神史」読破。武相困民党事務局長の須長漣造の生涯に感銘を受ける。    
柿生中学校の時代
年次 教育活動 労働運動・研究活動など 趣味・その他 世の中
1974年(24歳) C川崎市の教員に採用され、柿生中学校に赴任。1学年担当・学年委員会担当・教務部・卓球部担当。 2年社会(地理)・1年国語科担当。
主任の黒沢氏の指示で大野氏と学年委員会を運営。秋の地域社会見学などを企画運営する。
戸村選挙の過程で弟からオルグを受ける。   三里塚空港反対同盟委員長戸村氏が参議院全国区に立候補
三菱重工本社爆破事件
1975年(25歳) C1学年担任・生活指導部・生徒会指導担当・歴史研究部担当。分会役員。 1年社会科・国語科(1クラス)担当。
先輩の久保田氏から全生研流の学級指導・生徒会運営の手ほどきを得る。
教科書をつかわず自作プリントだけで授業を行う。同僚の大野・神長両氏と社会科研究会を立ち上げしばらく継続。
分会役員として機関紙を発行。以後88年3月まで一貫して分会運動を担う。
D政治運動に参加。首都圏教育労働運動にも参加する。
ソ連の教育学者マカレンコの著作集に触れ、「塔の下の旗」の実践で教育改革は社会改革の一環としてしか実践できないことを実感。
  文部省が主任の制度化を図る。
公労協スト権スト実施。
ベトナムでサイゴン陥落。ベトナム革命の勝利。
1976年(26歳) C2学年担当・生活指導部・生徒会指導担当・歴史研究部担当。分会役員。 2年社会科担当。
君が代・日の丸問題で校長と対立。以後担任を外される。
I生徒会の提案に基づき合唱コンクールに合唱曲以外の曲許可。
H労働情報結成大阪集会に参加。教労部会のメンバーとなる。   ロッキード事件・新自由クラブ結成・福田内閣成立
1977年(27歳) C3学年担当・学年委員会担当・学習指導部・歴史研究部担当。中央委員 。3年社会科担当。
I連合文化祭に「古墳時代の柿生」を発表。
K部員が麻生台横穴古墳群を発見。以後柿生地区に多くの横穴古墳群を発見する。
G県の教育研究会に合唱コンクール改革を中心とした生徒会指導のレポートを出す。
I神奈川の教組集会で「神教協・主任阻止闘争裏切りの構図=教育効果の向上をめざして=」を作成して配布。
指導要領改訂以後職員会議で日の丸・君が代反対が多数を占めていた状況が激変。少数派に転落。
@寿町で活動する弟が機動隊に頭を割られる重傷を負う。
G
横穴古墳撮影用にコンパクトカメラを使い始める。
E指導要領に君が代を国歌と規定する。
1978年(28歳) C1学年担当・学年委員会担当・学習指導部・考古学研究部担当。中央委員。 1年社会科担当。
B分会で人事希望を集約調整・主任の互選を採用。
BD成田空港開港阻止闘争に参加する。
D養護学校義務化反対神奈川連絡会議結成に参加し事務局を担う。
G「日教組運動の再生と『54義務化』阻止闘争」をまとめる。
  三里塚空港開港阻止闘争
1979年(29歳) C2学年担当・学年委員会担当・学習指導部・考古学研究部担当。中央委員。 2年社会科担当。
    ニカラグア革命・サッチャー政権成立・イランイスラム革命始まる・第二次オイルショック・ソ連アフガン侵攻
1980年(30歳) C3学年担当・学年委員会担当・学習指導部・考古学研究部担当。中央委員。 3年社会科担当。
G友人との研究会に「日教組運動の歴史的総括ー勤評闘争を中心として」を発表。   レーガン政権成立
1981年(31歳) C1学年担当・学年委員会担当・学年新聞担当・学習指導部・文化委員会文化祭指導担当・考古学研究部担当。中央委員。 1年社会科担当。
学年新聞担当として毎月新聞を発行。
I連合文化祭に「古墳時代の柿生ー柿生の横穴古墳の特色」を発表。
I文化祭に後夜祭の代りに「交友祭」を行う。
A卒業式を控えた職員会議で「君が代・日の丸反対」が圧倒的多数で否決。分会委員会多数派は以後闘争を棚上げして「生徒主体の学校づくり」の教育活動に専念することを決定。
G
友人との研究会に「日教組運動の歴史的総括A−福岡伝習館闘争を中心として」を発表。
この頃子安美知子著「ミュンヘンの小学生」を読み、シュタイナー教育の思想と実践に出会う。
この年あたりか? 後輩音楽教師の土沢氏とリコーダーの合奏を始める。 また音楽史談議も始め、以後レコードを買いあさるようになる。  
1982年(32歳) C1学年担任・学年委員会担当・管理部長・文化委員会文化祭指導担当・考古学研究部担当。中央委員。 1年社会科担当。
分会提案の人事案を校長が採用したため始めて管理部長(主任会のメンバー)となる。
先輩の松永氏の示唆で「予習プリント」で教科書を読み解く授業に変える。
I文化祭で個人・グループの参加を認める。オーディションを実施。
G友人との研究会に「日教組運動の歴史的総括B‐戦前の教労運動とエドキンテルンについて」を発表。
I教研集会に「教科書の記述についての一考察」を発表。
  F教科書検定国際問題化する。
中曽根内閣成立・国鉄民営化攻撃始まる・全民労協発足・労働運動の右翼的再編始まる。
1983年(33歳) C2学年担任・学年委員会担当・管理部長・文化委員会文化祭指導担当・考古学研究部担当。中央委員。 2年社会科担当。
大変荒れた学年であったが学年委員会の生徒などの支えで乗り切る。
G伝統の夏季施設私服着用で職員間対立。制服派の圧勝。学年委員会で服装などの規制を討論して私服できた伝統が否定され、生徒に不満広がる。
政治運動・労働運動のありかたに疑問を持ち、友人とFIの綱領総括の学習を始める。第一・第二・第三インターの歴史・論争の学習なども。たくさんの意見書を提出するが暖簾に腕押し。 Fコンパクトカメラで行事など生徒活動の撮影を始める。 臨時行政改革推進審議会設置・アメリカ軍グラナダ侵攻
1984年(34歳) C3学年担任・学年委員会担当・管理部長・文化委員会文化祭指導担当・考古学研究部担当。教研対策委員。 3年社会科担当。
C考古学研究部、王禅寺の開闢の歴史に迫る。
E3年生が「OPEN・ザ・文化祭」をスローガンに生徒会役員の多数を占める。
I新しい形の文化祭実施。生徒運営スタッフで運営されて2日間自由な活動の文化祭。
B友人と、エルネスト・マンデル著「永久革命の擁護」(英文)を翻訳する。
K一時期は分派闘争も想定したが、しだいに嫌気がさし、労働運動・政治運動を休止する。
@一眼レフで庭の花の写真を撮り始める。
B一眼レフで行事など生徒活動の撮影を始める。
G寿日雇労働者組合副委員長であった弟が事故死。
弟の追悼文集のための年表作成でワープロを購入。以後仕事にも使う。
 
1985年(35歳) B卒業遠足での私服着用をめぐり職員と生徒全面対立。遠足ボイコットに至る。
C1学年担任・学年委員会担当・管理部長・文化委員会文化祭指導担当・考古学研究部担当。教研対策委員。 1年社会科・1年書写担当。
C考古学研究部、麻生不動尊・亀井城の由来に迫る。
この年以後歴史学・社会学・宗教学・民族学・民俗学・経済学・心理学の学習に没頭。特に天皇制・日本社会の歴史と現状・宗教の歴史と役割の研究を行う。
I教研集会に「OPEN・ザ・文化祭ー地域との交流をもとめて」を発表。
B弟の事故死を巡って裁判提訴。父は裁判運動に没頭。
E追悼文集「ことぶきに生きて」が出版される。
E臨時教育審議会第1次答申出る(個性重視をうたう)
日米貿易摩擦・電電公社民営化・男女雇用機会均等法成立・プラザ合意(変動相場制となる)
1986年(36歳) B考古学研究部機関誌「あしあと」第1号発刊。
C2学年担任・学年委員会担当・管理部長・文化委員会文化祭担当・考古学研究部担当。教研対策委員。 2年社会科担当・1年書写担当。
I連合文化祭に「『幻の観音像』ー王禅寺伝説の解読(その2)」を発表。
  @この年の年賀状・暑中見舞いから自家製の花の写真葉書をつかう。


Kステレオを買い替える。
国鉄民営化法成立・国労修善寺大会(民営化と戦う勢力が執行部を担う)
1987年(37歳) B考古学研究部「あしあと」第2号発行。
C3学年担任・学年委員会担当・管理部長・文化委員会文化祭担当・考古学研究部担当。教研対策委員。 3年社会科担当・1年書写担当。
E初めて修学旅行で生活班での班行動を行う。
  F弟の77年のケガに対する国家賠償訴訟が勝利する。  
1988年(38歳)   ※A学級減を表向きの理由として分会つぶしの動きの一環として転勤を強要される。拒否の戦いで校長に謝罪させるも、混乱を避けて転勤を決意。
この年から、労働運動・政治運動を再開する。
   
西高津中学校の時代
年次 教育活動 労働運動・研究活動など 趣味・その他 世の中
1988年(38歳) C川崎市立西高津中学校に転勤。2学年担任・環境美化部長。 2年社会科・1年美術科担当。
大変な学校に来てしまった。教師の暴力が横行し教師集団はバラバラ。一部の生徒は荒れて、僕も怪我をする。でも担任を支えてくれた生徒たちが救い。
I10月集会第5分科会で基調報告。
この頃、雑誌「ひと」に出会い購読する。
   
1989年(39歳) C1学年担当・管理部。 1年社会科担当・書写担当。
担任を外れ1年間様子を見る。職員室の中の人間関係と勢力分布図を確認する。
@連合加盟反対闘争に取り組む。
J全労協運動を進める全国教育労働者連絡会議準備会結成・事務局を務める。
  @昭和天皇死去。
A指導要領「君が代・日の丸を義務化
教師の体罰批判が広がる
総評の解散・連合の結成・全労協・全労連結成
中国天安門事件・ポーランド連帯内閣成立
1990年(40歳) B柿生中学校考古学研究部が廃部となる。
C
1学年担任・学年委員会担当・管理部。1年社会科担当。
担任の数が足りないと校長に泣きつかれる。比較的考えの近い人で成り立つ中村学年に所属。「生徒主体の学校」に向けた学校改革スタート。学年運営を学年委員会の合議中心で運営して生徒の意見を生かし、学年独自行事をいろいろ実施する。
G柿生中学校考古学研究部の89年までの活動成果をおさめた「あしあと第3号」を発行。
G〜I神戸高塚高校における女子生徒圧死事件を契機に日教組運動の総括を試みる。
 その1 その2 その3
B徳恩寺に弟の墓ができる。 神戸高塚高校女生徒校門圧死事件→強圧的な生活指導への疑問広がる。
東西ドイツ統一・イラクがクェートに侵攻
1991年(41歳) C2学年担任・学年委員会担当・管理部長。歴史研究部担当(二子神社の石塔の謎に挑み始める)。 2年社会科担当。
Jめて班行動の鎌倉遠足を実施。遠足ノート「私の見た鎌倉」を生徒一人一人が作成。
  @弟の事故の裁判。東京高裁にて和解。
H
和解金などで徳恩寺に「千秋の丘」完成。
J2学年の鎌倉遠足・班行動で美術館に行き「遠足ノート」を作ったことを切っ掛けに美術館・博物館に足しげく通い、見学ノートをつけ始める。
湾岸戦争・ソ連邦解体。
1992年(42歳) C3学年担任・学年委員会担当・管理部長。歴史研究部担当 。3年社会科担当。
Eめて修学旅行で生活班での班行動を取り入れる。
I文化祭・連合文化祭社会科に「二子神社の謎の石塔」を発表。
前年秋以降美術展に通いづめ、絵画の歴史と社会的役割について考察し始める。   PKO法成立・日本新党結成・自衛隊カンボジア派遣。
1993年(43歳) C1学年担任・学年委員会担当・管理部長・歴史研究部(「作述城の謎」に挑みはじめる)。 1年社会科担当。
学級文庫を設けて中村氏の指導で児童文学の名作を100冊以上集める。
I文化祭で空き缶で作った巨大ロボット「カンダム」展示。
B皇太子結婚フィーバーについて論評する(社会学・天皇制研究の成果)。
G友人との研究会テーマ「トロツキーの戦間期戦略の再検討」をまとめる。
  クリントン政権発足・世界貿易センター爆破テロ・従軍慰安婦究明謝罪を求める運動が広がる・マーストリヒト条約締結(EU誕生へ)・細川連立政権誕生。
1994年(44歳) B柿生中学校考古学研究部の活動のまとめ「あしあと第4号」を発行。
C
2学年担任・学年副主任・学年委員会担当・管理部長・文化委員会文化祭指導担当・歴史研究部。2年社会科担当。
I文化祭で巨大貼り絵「写楽」を展示。
I来年の合唱コンクールの6月への移動と文化祭の準備・実施方式の変更を決定。
H労働情報に「千秋の丘3周年に想う」を掲載。
この頃子安美知子著「『モモ』を読む」に出会い、再びシュタイナー思想・教育論に出会う。
児童文学論に目覚めその歴史を研究する。
  村山自社さ連立内閣発足。
1995年(45歳) C3学年担当・管理部長・ 視聴覚指導部図書担当・文化委員会文化祭指導担当・歴史研究部。学年委員会指導を大内氏に譲る。
I有志参加が認められた初めての文化祭。学年で有志グループを多数作って参加。演劇やビデオ作成・環境を考えるなど。
A地域の婦人グループで地域の歴史A「弥生時代〜古墳時代編」を講演。前講師病気のため2回目から引き継ぐ。
Fオウム真理教事件について論評(現代社会・宗教研究の成果)
H地域の歴史B「古墳時代後半から奈良・平安時代」を講演。
  阪神淡路大震災・オウム真理教地下鉄サリン事件。「自由主義研究会」結成される
NATOボスニア空爆
1996年(46歳) C1学年担当・図書委員会担当・管理部長・ 図書館指導部長・文化委員会文化祭指導担当・歴史研究部。歴史研究部担当(「2ヶ領用水」に挑みはじめる)。
この年、市の環境教育委嘱研究を受ける(以後4年間)。 1年社会科担当。
※歴史をテーマを設けた討論学習に・地理を調べ学習に変更。
E文化祭の運営を生徒の運営スタッフに任せることを決定。
H文化祭に向けて多摩川中流の水質検査や生物調査などを実施。I新方式の文化祭で発表。
A地域の歴史C「威光寺と稲毛三郎重成」を講演。
E労働情報にリレーシンポ「今教育労働者に求められているもの」を掲載。
Gリレーシンポのまとめを労働情報に掲載。
G全労協全国教労夏合宿に基調報告。意見があわず以後労働運動から離れる。
H地域の歴史D「威光寺と太田・渋子郷−中世の地域はどのような村だったか」を講演。
環境教育へ関るとともに環境学に接近。
D今後の地震のことを考えて家に耐震補強を施す(震度6以下と考えて補強) E自由主義研究会、教科書から従軍慰安婦の記述削除を要求。
新潟県巻町で住民投票で原子力発電初建設否決
1997年(47歳) C2学年担当・図書委員会担当・管理部長・図書館指導 部長・文化委員会文化祭指導担当・歴史研究部。2年社会科担当。
この年度も歴史をテーマでの討論学習・地理を調べ学習で行う。
D多摩川自然観察を実施。中流の水質検査や生物観察を学年全員で実施。
H文化祭にむけて水・魚・生き物・ゴミのチームに分かれ、下流・中流・上流の水質検査や生物調査、さまざまな聞き取り調査を実施。
I文化祭で活動成果を発表し、「多摩川を上流のような自然豊かな川にどうしたら戻せるか」シンポジウムを実施。

I文化祭で図書委員会主催の小説コンクールを開催。以後毎年文化際に図書委員会として展示参加。
A地域の歴史E「豊臣秀吉の禁制と地域−戦国時代とは」を講演。
D「自由主義史観」論争について批評(社会科・歴史研究の成果)。
H神戸小学生連続殺傷事件について論評(社会学・精神分析学研究の成果)。
H地域の歴史F「江戸時代@二ヶ領用水と街道の建設」を講演。
H始めての小説「翔べ!カッパ!−水神のお告げ」を書く。 @「新しい歴史教科書を作る会」結成される。
沖縄名護市で住民投票で海上ヘリポート建設否決
アジア通貨危機・地球温暖化防止京都会議・京都議定書締結される。
1998年(48歳) C3学年担当・図書委員会担当・管理部長・図書館指導部長・文化委員会文化祭指導担当・歴史研究部。 3年社会科担当。公民もテーマを設けての討論学習で行う。
C修学旅行2日間を自由な班での見学で実施する(前年度より)。
I文化祭に3学年は多数の有志グループを作って参加。図書委員会主催の第2回小説コンクールを開催。
@「王の物語」としての平家物語の成立と目的をさぐりはじめる。
A地域の歴史G「江戸時代A江戸時代資料に見る地域」を講演。
H兵藤裕己「平家物語」(ちくま新書に出会い自分の仮説が先取りされたことに気付く。
H地域の歴史H「江戸時代B人々の暮らしと信仰」を講演。
H2作目の小説「透明な君へ」を書く(未完)。 労働基準法改悪
学習指導要領改訂。中学社会歴史は「時代の流れ」を重視し日本史中心に変わる。
1999年(49歳) C1学年担当・1学年総合学習担当・ 図書委員会担当・管理部長・図書館指導部長・文化委員会文化祭指導担当・歴史研究部。1年社会科担当。
社会科で後輩の片山氏とティームティーチングに挑む。新たな視点での社会科指導計画をつくる。
D学区探検ウォークラリーを実施。
E「教育研究情報」31(日本教育科学研究所刊)に「環境教育」の取り組みを発表。3年間の多摩川自然観察の成果をまとめたもの。
F多摩川クリーン作戦に合わせて河原で石やガラス・流木を採取。
H〜I総合選択授業で環境・福祉などのコース別に学習。文化祭で発表。
I文化祭・連合文化祭社会科に「忘れられた2ヶ領用水の支流」を発表。 図書委員会主催の第三回小説コンクールを開催。
@友人たちとの研究会・第一ステージ「トロツキーの戦略の再検討」を始める。
B地域の歴史I「江戸末から明治初の教育」を講演。
H地域の歴史J「明治時代」を講演。
@ついにパソコンを始めインターネットを始める。
G柿生中時代の教え子・木村由さんのコンテンポラリーダンスに出会い、毎年見に出向く(2007年の今も続く)。
G国歌国旗法施行
「ゆとり教育」を掲げる教育改革が始まる。
NATOコソヴォ空爆・EU通貨統合・ベネズエラに反米のチャベス政権誕生
2000年(50歳) @〜B総合選択授業をコース別に8時間実施
C
1学年担当・1学年総合学習担当・図書委員会担当・管理部・図書館指導部長・文化委員会文化祭指導担当・歴史研究部。総合学習の3年計画を策定。
今までに組んだことのない市川学年に移動。
新たな視点で社会科の3年計画を策定。独自に造った単元に基づき単元指導案と毎時間の指導案を作成。
E多摩川河口の環境調査を実施。
I文化祭で多摩川河口干潟の大貼り絵パネルを制作。河口の生き物も展示。 図書委員会主催の第四回小説コンクールを開催。
@「個性を配慮した教育を考える」メールマガジンのHamaさんと歴史教育のありかたを議論。
A教育改革の可能性と矛盾について論評。
A
地域の歴史K最終回「明治・大正・昭和」を講演。
H
研究会第一ステージ「トロツキーの戦略の再検討」を完了する。
片山氏との教育談義の中で、イギリスの教育者の「ニイル選集」に出会い、そのつながりでアドラー心理学に出会う。またピアジェの認知心理学にも関心を寄せる。
I三宅島噴火をめぐる科学者の葛藤について論評
K旧石器ねつ造事件について論評
B個人サイト「学校を変えよう」を始める。
G第1回写真展・「花暦庭の花々1」を自由が丘で開催。
この年、ハイツデコさんの教育コラム通信に出会い、メールマガジンに投降を始める(03年まで)。村上龍の「JMM」とも出会って投稿を始める。また「ハダカの学校」とも出会って投稿を始める。
徳島で住民投票により吉野川河口堰建設否決
2001年(51歳) B多摩川河口部の工場見学を実施。
C
2学年担当・2学年総合学習担当・図書委員会担当・管理部・図書館指導部長・文化委員会文化祭指導担当・歴史研究部。
D多摩川中流の環境調査を学年全員で実施。
D多摩川上流の環境調査を学年全員で実施。
I文化祭で多摩川上流奥多摩湖の大貼り絵パネルを作成。上流・中流の生き物も展示。
B君が代・日の丸反対闘争について論評。
E新しい歴史教科書の徹底批判を始める。F要約版も作成。
G
研究会第二ステージ「FIの戦略の再検討」をはじめる。
I
教員を2003年春で退職することを決意。そのための準備を始める。
Cインターネットで平家琵琶に出会い、度々聞きに行く。
G第2回写真展・庭の花々2「春の宴」を自由が丘で開催。
ブッシュ政権発足・小泉内閣発足・9.11連続テロ・アフガン戦争。
2002年(52歳) C3学年担当・3学年総合学習担当・ 図書委員会担当・管理部・図書館指導部長・文化委員会文化祭指導担当・歴史研究部。
D総合学習の校外授業。各自のテーマで各地に調査。
@東京の市民グループで「なぜ今、有事法制・自衛隊海外派兵・教育基本法改正が問題になるのか」を講演。
B「食農教育」(農山漁村文化協会刊)19掲載の「『総合』で教師が変わる」の座談会に出席。
D迷走する「ゆとり教育」について論評。
H研究会第二ステージ「FIの戦略の再検討」を完了する。
K研究会第三ステージ「エルネスト・マンデルの戦略の再検討」を始める。
G第3回写真展・庭の花々3「夏の香」を自由が丘で開催。
Hネット検索で「かるさん(袴)」に出会い購入。以後平家琵琶関係の会合に行くときは「かるさん」姿で出かける。
C「ゆとり教育」の完全実施。
2003年(53歳) B3年間の総合学習のまとめ発表会を開催。卒業式会場に、多摩川河口干潟奥多摩湖の二枚の大貼り絵パネルを掲示。
B
川崎市立中学校教諭を退職。定年まであと7年で希望退職。以後自宅で評論・研究活動に専念。
    イラク戦争・自衛隊イラク派遣。
退職後の時代
年次 労働運動・政治活動など 研究活動など 趣味・その他 世の中
2003年(53歳) G友人との研究会・第3ステージ「エルネスト・マンデルの戦略の再検討」を終える。
K研究会・第4ステージ「戦後思想の総括」を小熊英二「民主と愛国」を参考にし、戦後史・戦前から戦後の日本左翼運動史・戦略の再検討を始める。
  C平家琵琶を習いはじめる(所沢の新井さん)。とりあえず月に1度。
C所沢の宝玉院の日本伝統音楽研究所の講座に通い始める。平家琵琶・雅楽・日本文化史の講座をそれぞれ月に一度。
退職とともに、日常着は和服の「かるさん」姿となる。
G我が家に太陽光発電装置を導入。
G第4回写真展・庭の花々4「命燃ゆ」を自由が丘で開催。
イラク戦争・自衛隊イラク派遣。
2004年(54歳)  

 

 

F2004年6月に長崎県佐世保で起きた同級生殺害事件の背景を論評

 


J
川崎の市民グループで「20世紀とはどんな時代だったのか」を講演。
K
研究会・第4ステージ「戦後思想の総括」をほぼ終える。

 

C平家物語の各句の意味の解説を始める
 

@平家琵琶の稽古を週に1度に変更。
C妹が以後入退院を繰り返す。
D父が末期の大腸癌で手術。
E宝玉院の「楽しむ会」の前座として、平家の「僧都死去」の一部を語る。
G第5回写真展・庭の花々5「風薫る」を自由が丘で開催。
中国重慶のアジアカップで反日行動
2005年(55歳)
J女性天皇問題を論評(天皇制研究の成果)
 

 

 

 

 

G「新しい歴史教科書」第二版出版を契機に、中断していた「徹底検証」を再開。中世の巻の途中から続きを執筆。
H歴史教科書批判に関り「軍記物・平家物語の成立と性格」を執筆。

A父が死去(86歳)
A平家琵琶の前座「額打論」がいろいろの理由で中止となる。
B父の葬儀にて「額打論」を1句語る。以後平家琵琶の稽古を休むこととなる。
E父の人生の記録「よく遊びよく学べ」を香典返しのために同時代社から出版。
G第6回写真展・庭の花々6「水温む」を自由が丘で開催。
中国で反日デモ・9月総選挙自民党圧勝。
2006年(56歳) @編集・校正に携わった友人の著書「戦後左翼はなぜ解体したのか」が同時代社から出版される。
@川崎の市民グループで「なぜ今、教育基本法改正なのか?」を講演。
B講演に基づき教育基本法改正について論評。
 
 

 

C歴史教科書批判に関り「平家琵琶の歴史」を執筆。


H「徹底検証新しい歴史教科書・古代編、中世編」を同時代社から出版。

A父の一周忌。

 


C
30年ぶりに大学の同級(有志)会を奈良で開催。
G
弟の23回忌。
H第7回写真展・野山の花「足元の神秘」を向ヶ丘遊園にて開催。
I大学の同級(有志)会を東京にて開催。

第一次安倍内閣発足。
2007年(57歳)   F「徹底検証新しい歴史教科書」近世編上を同時代社から出版。 @平家琵琶の稽古を再開。2週に1度。
A父の3回忌。
H第8回写真展・「公園の花々」を向ヶ丘遊園にて開催。
H平家琵琶稽古会(渋谷チルリアンタワー能楽堂)で「蘇武」を語る
教育基本法改悪される。
参議院選挙で自民敗北直後病気により安倍政権退陣。福田政権誕生。
2008年
(58歳)
G6月の秋葉原殺傷事件の背景を論評 G「徹底検証新しい歴史教科書」近世編中を同時代社から出版。
 
 

H第9回写真展・花暦総集編1「庭の花々」(7)「百花繚乱」を向ヶ丘遊園にて開催。
H平家琵琶稽古会(所沢宝玉院)にて「文覚荒行」を語る。

麻生政権誕生。
2009年
(59歳)
G地球温暖化人為説の嘘を論評

K
齋藤修一郎研究の関係で日本英学史学会に参加する。
@昨年末に死去した母方の伯父の49日法要にていとこたちから、曽祖父松本晩翠・齋藤修一郎のことを聞く。以後彼らの研究にのめり込む。
H
第10回写真展・花暦総集編2「庭の花々」(8)「風そよぐ」を向ヶ丘遊園にて開催。
総選挙の結果民主党への政権交代(鳩山政権)が実現する。
2010年
(60歳)
 

 

H友人が出した「20世紀社会主義の挫折とアメリカ型資本主義の終焉」の書評として、この本は20世紀社会主義運動の敗北の歴史を総括して、それはそれぞれの運動の指導部の誤りなどではなく、その運動の前提である時代認識、すなわち資本主義はすでに死の苦悶に陥っているという認識と、社会体制は暴力的にそれを転覆できるというマルクス主義革命論の誤りに敗北の原因があったことを明らかにしたものである、注目すべき書であることを論じた。

 


F日本英学史学会本部例会にて、「破産してもなお外交にこだわった男・齋藤修一郎−「失意の外務官僚」像の再検討−」 を発表。

C齋藤修一郎研究に関わり京都の母の実家を訪問。貴重な史料をいくつもみつける。
G
弟の27回忌。
H
第11回写真展・花暦総集編3「庭の花々」(9)「花薫る」を向ヶ丘遊園にて開催。
沖縄基地問題などで鳩山が責任をとって辞任。菅政権成立。菅の増税発言で参議院選挙民主党絶対多数を取れず。
2011年
(61歳)
 

C東日本大震災に伴い、始めようとしていた新たな研究会「新しい時代にあった新たな戦略のための研究」を一時棚上げし、こんごどのように動くべきかの検討を始める。この中で革命党の再建とする意見に対して、マルクス主義の誤りを自覚しない先祖がえりの説として批判を展開。
D東日本大震災を引き起こした大地震と津波が予測されていたことを論評

I新たな研究会の第2ステージとして「共同体」と「市民社会」の研究を開始。この中で共同体の再認識とマルクスの時代は近代化の中で解体され失われた共同体の再建が論議された時代であることに気がつく。
K福島原発事故による放射能汚染への政府の対応を論評
 

 

B日本英学史学会東日本支部紀要第10号に、「30年も前に日米戦争を予見した男・齋藤修一郎との出会い」を掲載。
C日本英学史学会本部例会にて「齋藤修一郎の英文自伝−西洋との出会いとその衝撃」を発表。
D朝河貫一研究会に参加。

 


I日本英学史学会東京大会にて、「齋藤修一郎にとって西洋とは何であったのか」を発表
J朝河貫一研究会にて、 「朝河貫一の日本外交批判論の限界 −齋藤修一郎日本外交批判論の検討を通じて− 」を発表。

A父の七回忌にあたり、小田原の祖父母と父の兄の遺骨を徳恩寺の父と弟の墓に埋納。酒匂の墓は廃止する。
B3.11の大震災にて家の壁に亀裂(一年後わずかに北側に傾いたことを確認)


H第12回写真展・花暦2「庭の花々」(10)「命輝く」を向ヶ丘遊園にて開催
I川崎もかなり放射能汚染がされていることに気が付き線量計を購入してあちこち測定する。
K平家琵琶稽古会(宝玉院)にて「大地震」を語る。

3月11日東日本大震災がおこる。その後福島第一原発1〜3号機がメルトダウン。深刻な放射能汚染が東北関東を襲う。
2012年
(62歳)
 

 

 

 

 

Jいじめ問題解決の課題を論評。
K
脱原発を求めて首相官邸を包囲する国会でも。このデモが生まれた背景を論じた本の書評を書く。
K
新たな研究会の第一ステージ「アメリカ型資本主義の歴史的展開と総括」を再開。この中で現代は資本主義の発展が止まり、格差を拡大することでしか資本が増殖できないという資本主義の終わりの始まりの時代という認識を得る。

B日本英学史学会東日本支部沼津大会にて、「沼津兵学校付属小学校の齋藤修一郎−青楼下宿説の虚妄」を発表。
C日本英学史学会東日本支部研究紀要第11号に、「齋藤修一郎の英文自伝」を掲載。
F日本英学史学会本部例会にて、「齋藤修一郎の比較文明論−歴史叙述方法の違いから見た日・中・欧」を発表。
I日本英学史学会北陸支部研究紀要第12号に、「破産してもなお外交にこだわった男・齋藤修一郎−『失意の外務官僚』像の再検討」を掲載。
J日本英学史学会本部例会にて、 「『いろは文庫』の英訳@−翻訳の実際から見た英訳の意図」を発表
J朝河貫一研究会にて、 「もう一つの『日本の禍機』:大塚善太郎『日米外交論』1910年相模屋書店−齋藤修一郎「最近米国観」の発見」を発表。
B〜E今後の地震のことを考えて家を耐震補強し全面リフォームする(今後来る地震は震度7もありと想定)
C平家琵琶稽古会(宝玉院)にて「実盛最期」を語る。


H平家琵琶稽古会(宝玉院)にて、「鵺」を語る。

公約に反して自民・民主・公明三党での増税決定を受けた総選挙の結果民主党が敗れ、相対的な得票数の多さで自民党が大量議席を獲得し、極右民族主義政権である第二次安倍政権が誕生。
2013年
(63歳)
 

B安倍政権の国土強靭化政策の欺瞞性を論じる。
C
第一ステージの研究会の中でアメリカの歴史を担当。この中で20世紀初頭の新たな政治勢力としての革新主義は、資本主義の再生を企図したものであることに気が付き、日本でも齋藤が属した伊藤・原などの傾向が同じものであることを確信した。これが戦前の日米同盟派であり、戦後自民党の主流をになった人々であることも確認。
D東京オリンピック招致問題と放射能汚染を論じる。

@日本英学史学会本部例会にて、 「『いろは文庫』の英訳A−齋藤修一郎と「忠臣蔵」の密接な関係」を発表。
B日本英学史学会東日本支部研究紀要第12号に、 「沼津兵学校付属小学校の齋藤修一郎―青楼下宿説の虚妄」を掲載

 

 

 


F日本英学史学会本部例会にて、「いろは文庫」の英訳B−テキスト選択の謎を発表。
H日本英学史学会報131に「齋藤修一郎が明治19 年〜 21 年に読んだ英書の発見」を掲載。
I日本英学史学会東京大会にて、「いろは文庫」の英訳C−出版の背景を発表。

 

B平家琵琶稽古会(宝玉院)にて「橋合戦}を語る。

 

 

 


E
友人宅の新築祝いで、「桜」「鱸」を語る。


H
平家琵琶稽古会(宝玉院)で「二代后」を語る。
I
第13回写真展・コスモス特集「秋の風」を自宅にて開催。

 
2014年
(64歳)
 

BSTAP細胞事件について論評
Bグループ合宿に「保守派との連携の問題について」と題して、マルクス主義の誤り、つまりマルクスの社会変革論についての誤解について論じる。
B川上徹著「戦後左翼の誕生と衰亡」同時代社刊に対して、感想として「僕が左翼になったわけ」という自伝的文書を著者に送り、この中でマルクス主義の誤りについても論じる。

@日本英学史学会本部例会にて、「いろは文庫」の英訳D−「ルーズベルト伝説」の真偽を発表

 

 

 

 

I越前市訪問に関わり齋藤家の歴史を諸史料にあたって調べ始める。この中で越前府中への種痘伝苗日の定説が誤っている事に気が付き、以後論証に没頭する。
I日本英学史学会福井大会にて、グリフィスと齋藤修一郎―グリフィス東京日記とグリフィスの修一郎評価を中心として―」を発表。

 

 

B平家琵琶稽古会(宝玉院)で「宮御最期」を語る。
E
同人誌「ペガーダ14号」掲載の「故郷喪失」などへの違和感から、この違和感を考察した手紙を編集部に送る。文芸同人アニマの会に入会する。
F
平家琵琶稽古会(宝玉院)にて「樋口被斬」を語る。
I
第14回写真展・ポピー特集「風はみどり」を自宅にて開催。
I
齋藤修一郎と松本晩翠の故郷・福井県越前市を訪ね、晩翠らの日記を市立図書館に寄贈したり、遠い親戚と懇談し、齋藤家菩提寺正覚寺を訪ねる。
Kアニマの会機関誌「ペガーダ15号」に、「ふるさとを失うということについてー自伝的考察」を発表する。
K平家琵琶の稽古が300回を終える。

二年の任期を残した突然の総選挙で自民は議席を減らしたものの政権を維持。安倍政権はさらに右傾化。集団的自衛権行使に前のめりに。
2015年
(65歳)
 

 

 

F安保法制改悪にからんで日本外交の対米従属からアジア重視への転換の必要性を歴史的に論じる。

 


I原発再稼働の欺瞞性を論じる。

 


C日本医史学会の機関誌「医史学雑誌」に、「越前府中種痘伝苗日の間違いについて」と投稿。医史学会に加入。


G医史学会機関誌への投稿原稿が「論証不十分」と審査される。
H医師学会機関誌への投稿を書き直して再度投稿。齋藤修一郎英訳の「いろは文庫」の英訳過程などを研究するイェール大学院生に質問を受ける。
I
日本英学史学会東京大会にて、「越前府中の蘭方医学ー齋藤修一郎自伝補遺@」を発表。

@平家琵琶の稽古で、伝授物の読物のうち「康頼祝詞」の稽古を始める。
C大学以来の友人吉川さん死去。
E平家琵琶稽古会(宝玉院)にて「読物」の「康頼祝詞」を語る。
G4月に他界した吉川さんの遺灰を葉山沖の海にまく。
Hアニマの会機関誌「ペガーダ16」号に、「亡き友を偲ぶ」「私と音楽―なぜ今平家琵琶なのか、自伝的考察」を掲載。
I第15回写真展・水連特集「めざめ」を自宅にて開催。
安倍政権は議席の数を頼みにして国民の6割以上が反対した「戦争法案」を衆参両院で強行可決。連日国会を万余の国民が包囲するも阻止できず。

10.14古代史家古田武彦氏死去。89歳。

2016年(66歳) K今上天皇家の「天皇制」をめぐる戦いー天皇退位問題の意味するところで、天皇退位表明が皇位継承の在り方も含めた問題提起であることをあきらかにする。 A所沢の肥沼さんらが設立した「多元的『国分寺』研究サークル」に参加。以後国分寺を中心に古代史研究開始。
A今井久著「伊予国分寺と白鳳瓦―最初に国分寺制度を造った誰か」を批判

D日本英学史学会本部例会にて、「齋藤修一郎のアメリカ観」を発表。

 

 

H「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(訂正版1)を発表。
I「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(訂正版2−5)を提示し法起寺式か観世音寺式かと論じる。
J「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(訂正版2−6)を発表し「日本書紀」「続日本紀」の仏教関係記事精査により「国分寺」と呼ばれた理由を解明。
K日本英学史学会本部例会にて、「越前府中と蘭方眼科医齋藤策順家―齋藤修一郎を育んだ土地と時代」を発表。

 

 

C葉山マリーナにて15年4月22日に亡くなっ友人吉川さんの偲ぶ会を開催。
E
アニマの会の機関誌「ペガーダ17号」に、「評論:★追悼!わが師・古田武彦さん―私と「古田史学」―」を掲載。
F柿生中学校1985年卒業生の同期会に参加する。
H第16回写真展・カタクリ特集「朝の光」を自宅にて開催。

 
2017年(67歳)    

B日本英学史学会本部例会にて、「齋藤修一郎と英学@−沼津兵学校付属小学校時代」を発表。
B「古田史学の会」で実証主義歴史学を否定した傾向が生まれていることに気が付き論争に参戦。論争の場として所沢の肥沼さんが設立した「古田史学の継承のために」ブログで古代史を討論。
D
日本英学史学会報142に「齋藤修一郎評伝」の試みー英学史の射程距離ー を掲載。
E孝徳の宮「難波長柄豊碕宮」はどこにあったか?(訂正版)を発表。
Eいかにして「前期難波宮九州王朝副都説」が虚妄であることに気が付いたのか―「自分史」的考察ーを発表。
F
「磐井の乱を考える」を発表。新たに見出した『日本書紀』解読法(主語有無の論証)を元に解析し、この事件は九州王朝内の天皇位を巡る騒乱と結論。
F古賀・大下論争を読み解く―「前期難波宮九州王朝副都説」について、を発表。
G書紀天武紀・持統紀宮関係記事の精査を発表。
H
「書紀持統紀の吉野行幸記事の真実」を発表。この記事は、朱鳥年間における、九州王朝天皇の佐賀なる吉野行幸記事と、同じ時期の近畿天皇家の持統の大和なる吉野行幸記事、そして同じ時期に大和に遷った九州王朝天皇が大和なる吉野に行幸している記事とからなっていることを明らかにし、古田説の誤りを指摘。
H「中皇命の伊勢行幸記事の持統紀への盗用について」を発表し古田説の誤りを指摘。
I「書紀斉明紀を精査する」を発表。「主語有無の論証」で書記を読み解く。

 

 

 

I日本英学史学会東京大会にて、「越前府中とアーネスト・サトウー齋藤修一郎英文自伝補遺A」を発表。

A平家琵琶の教習で平物161句の教習を終了し、伝授物39句の教習に入る。

 

Cアニマの会の機関誌「ペガーダ18号」に、「評論:「私と『古田史学』」補論 「九州王朝」論は「万世一系」を否定する―「古田排除」の政治的背景―」を掲載

 

 

 

 


Gアニマの会を退会する。ペガーダ18号の記事を補足する手紙を会員に送ったところ会長から嫌がらせを受け退会を迫られる。退会届は出さなかったがこれを巡って会が分裂しかかり、私の事実上の退会と会長の行為を不問に付す形で決着したもよう。

I第17回写真展・最終回総集編「花暦」を自宅にて開催。

 
2018年(68歳)  

 

 

C日本英学史学会本部例会にて「齋藤修一郎と英学A−大学南校から開成学校時代(1)大学南校」を発表。
D日本英学史学会報145に「ラフカディオ・ハーンは平家琵琶を聞いていない」を掲載。
D「古田史学の継承のために」「多元的『国分寺』研究サークル」の両ブログが事実上の閉鎖となったことを切っ掛けに古代史研究を切り上げる。「古田史学の継承のために」ブログの議論を保存する場を本サイトに設ける。

 


F武蔵国分寺創建伽藍と初期武蔵国庁の探査のため府中・国分寺両市の発掘記録の精査を開始 (府中研究会の始まりー19年3月まで)。
H肥沼氏と全国の古代寺院・官衙遺構の「方位」の精査を開始 (「方位の考古学」研究のはじまりー20年6月まで)。
I「川崎・ 府中市の発掘調査概報による悉皆調査の開始(ー19年3月まで)。武蔵国庁の変遷を推定(国分寺のすぐ南→多摩郡庁への国庁機能の移転→多摩郡の有力者居宅への国庁機能の移転。
国分寺出土瓦の精査からこの伽藍変遷の新説を出す。1:6世紀末〜7世紀初 正方位伽藍・素弁蓮華文軒丸瓦→火災で焼失 2:聖武詔に伴い焼失した五重塔の基壇を拡大して七重塔を建立し焼失した創建伽藍の西に金堂院などを再建。平城京系の単弁蓮華文軒丸瓦 3:平安時代に神火で塔が焼失→西側に同規模で再建 巴文の瓦 4:鎌倉幕府滅亡の争乱で堂塔が焼損。講堂は基壇を拡大して金堂と同じ規模に再建。

B「川崎・長尾平曲会」にて「鵺」「実盛最期」の2句を語る。
B「肥沼さんの卒パ」にて「壇ノ浦合戦」「先帝御入水(一部)」を語る。
C鎌倉にて大学同期(有志)会を開く。
C県立川崎高同期会に参加。50年ぶり。
D「川崎・長尾平曲会」にて「宇治川」「那須与一」の2句を語る。
E15年通った新井先生との師弟関係を解消。

 


F
「川崎・長尾平曲会」にて「木曽最期」「樋口被斬」の2句を語る。
H「川崎・長尾平曲会」にて「一二之懸」「敦盛最期」の2句を語る。
 

 


J長尾平曲会」にて「二度之懸」「知章最期」の2句を語る。

 
2019年(69歳)   @府中遺跡悉皆調査の中で「国寺」墨書土器の存在を確認→国分寺の当初名は「国寺」である可能性。

B府中遺跡悉皆調査の中で武蔵国衙遺跡の報告書を精査し、この国庁の変遷時期を確定。府中研究会を終了。
C研究拠点を中原図書館に移し、明治の新聞(復刻版朝日新聞)を明治21年版から全部読み始める(齋藤修一郎の動向を追跡+それぞれの時期の政治情勢の実態を記事で確認)。

 

 

 

 

 

 

K 日本英学史学会第534回本部例会にて「齋藤修一郎と英学A−大学南校から開成学校時代ー(2)南校・東京第一番中学時代」を報告
 

@「川崎・長尾平曲会」にて「越中前司最期」「忠度最期」「重衡生捕」の3句を語る。
B「川崎・長尾平曲会」にて
「二代妃」「額打論」の2句を語る。
C第10回一ツ目弁天平曲会(本所江島杉山社)にて「額打論」を語る。
D川崎長尾平曲会(第8回)にて「清水寺炎上・東宮立」「殿下乗合」を語る。
F川崎長尾平曲会(第9回)にて「鹿谷」「西光被切」を語る。
H川崎長尾平曲会(第10回)にて「御産」「公卿揃」「法王被流」(法皇御遷幸)を語る。
J川崎長尾平曲会(第11回)にて「源氏揃」「宮御最期」を語る。
K中国武漢にて新型肺炎流行⇒新型コロナウィルス感染症爆発の初め
2020年(70歳)  

 

Chpトップに「新型コロナウィルスの情報」コーナーを設置。
C「日本の感染状況をどう考えたらよいのか」を書く。

 

F「7月末の日本の感染状況をどう考えたらよいのか」を書く。


Aコロナ禍で図書館入館制限が出たため中原図書館での調査を一時中止。
B
方位考古学のための全国古代遺跡悉皆調査が一応完了。以後中国四国・近畿・中部・関東の再精査開始。

 

E方位の考古学のための全国古代遺跡悉皆調査が終了。土器編年による年代比定のズレがあることを確認。近畿を基準に、東の中部・西の中国四国ー50年遅らせられる。東の関東・東北南部と西の九州ー100年遅らせられる。東北北部はさらに150年遅らせられる。しかし肥沼氏がまとめ論考を書かないのでここで中断。

@川崎長尾平曲会(第12回)にて「早馬」「朝敵揃」と「福原院宣」「富士川」を語る。
B川崎長尾平曲会(第13回)にて「都還」「奈良炎上」を語る。感染症対策をとって開催。
D
新型コロナ感染症蔓延のため川崎長尾平曲会(第14回)を中止。

F川崎長尾平曲会(第14回)にて「新院崩御」「飛脚到来」「入道死去」を語る。感染対策として定員6名に削減し、第二日曜・第三日曜の二度開催とする(以後も同様)。
H川崎長尾平曲会(第15回)にて「横田河原合戦」「北国下向」「火打合戦」を語る。
J川崎長尾平曲会(第16回)にて「願書」「倶利伽羅落」を語る。
K新型コロナ感染症の広がりのため川崎長尾平曲会参会者が激減。対策の一つとしてインタネット会議システムZOOMを使用しての生配信を計画。テスト送信会を2回開催。「敦盛最期」「額打論」を語る。

 

 

C.4.7 緊急事態宣言発出ー5月7日まで。⇒延長→5.31まで。5.14一部解除。5.21すべて解除。このため日本英学史学会本部例会は、3月から7月までは中心。9月以降はZOOMでの開催に変更。朝河貫一研究会も同様。

2021年(71歳) @「2020年年末から21年年頭の新型コロナウィルス感染状況をどう考えたらよいのか」を書く。
B
2021年3月の新型コロナウィルス感染状況をどう考えたらよいのか!」を書く。




E「2021年6月末の感染状況をどう見るか」を書く。


G「2021年8月末の感染状況をどう見るか」を書く。

A肥沼さんと方位の考古学の成果と瓦編年の修正を生かして、各地の国分寺遺構の再検討を始める。薩摩・筑前・筑後・肥前・肥後と再検討作業進む。
C国分寺遺構再検討を単独で継続(肥沼氏が報告書を読み込むのに時間がかかり間違いが多いので、単独の研究に変更)。豊前・豊後・日向と進む。
D国分寺再検討。日向・大隅完了。共同研究成果の見直しを始める。豊後。
E国分寺再検討。豊後・豊前完了。
F国分寺再検討。肥後に手を付けるも妹の入院で中断。
@川崎長尾平曲会(第17回)にて「主上都落」「維盛都落」を語る。ZOOMによる生配信開始。B川崎長尾平曲会(第18回)にて「忠度都落」「経正都落」「福原落」を語る。ZOOMによる生配信実施。
D川崎長尾平曲会(第19回)にて「宇佐行幸」「太宰府落」を語る。ZOOMによる生配信実施。
F川崎長尾平曲会(第20回)にて「征夷将軍院宣」「水島合戦」「瀬尾最期」を語る。ZOOMによる生配信実施。
H川崎長尾平曲会(第21回)にて「鼓判官」「法住寺合戦」を語る。ZOOMによる生配信実施。


J川崎長尾平曲会(第22回)にて「河原合戦」「三草合戦」「坂落」を語る。ZOOMによる生配信実施し、録画をユーチューブで配信。
@1.7 二度目の緊急事態宣言発出⇒2.7まで。栃木だけ解除して他は延長 2.7⇒3.7。
B
緊急事態宣言を二週間延長。
C
4.25三度目の緊急事態宣言。


F
7.12東京都に四度目の緊急事態宣言⇒全国に拡大⇒9.30解除
F
妹裕子が新型コロナワクチン副反応で下半身麻痺となり聖マリアンナ医科大学病院に入院。

H妹の介護のため庭をつぶして妹の家を建てることを決定し工務店に発注。妹は川崎みどりの病院に転院。以後毎週2度妹のマンションの片付け整理作業に入る。
2022年(72歳)  










E日本英学史学会本部例会第556回にて「ラフカディオ・ハーンと平家琵琶ー耳なし芳一考ー」と題して報告。ハーンの芳一の語りと琵琶は肥後盲僧琵琶を聞いた体験が元になっている可能性を、各琵琶音源の比較と、ハーンの手紙類をもとに推理。



G中原図書館での明治新聞点検作業を再開。
@川崎長尾平曲会(第23回)にて「首渡」「八島院宣」「請文」を語る。ZOOMによる生配信実施し、録画をユーチューブで配信。
B川崎長尾平曲会(第24回)にて「海道下」「千手前」を語る。ZOOMによる生配信実施し、録画をユーチューブで配信。
D川崎長尾平曲会(第25回)にて「維盛出家」「維盛入水」を語る。ZOOMによる生配信実施し、録画をユーチューブで配信。
F川崎長尾平曲会(第26回)にて「逆櫓」「嗣信最期」を語る。ZOOMによる生配信実施し、録画をユーチューブで配信。


A妹が老健施設ハートフル瀬谷に移る。

C友人肥沼氏が音信不通となる。妹の家完成間近となり引っ越し業者と契約し、引っ越しのための荷物梱包に週二度通う。
D妹の家が完成し引っ越し。
E妹が家に戻る。以後母と妹の二人介護の毎日となる。


F妹が褥瘡手術のため入院。次の日新型コロナ発症。一時は酸素吸入必要な中等症Uとなるも10日で普通病棟に戻る。
G肥沼氏の消息判明。5月に緊急入院。以後長期療養。

こうして振りかえって見ると、自分のやってきた事考えてきた事が良く分かります。こうした機会を作ってくれた肥さんに感謝です。これ以外の高校時代以前のことはまたいつか、時間ができたらやってみます。歴史教科書批判に戻ります。07.3.12
2015年年初までの歩みについて追加。グループでの政治討論研究と歴史研究が見事にリンクしていることに気がつく。15.2.1

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