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2005年〜現在 2004年 2003年 2002年 2001年

2005年〜現在の主な更新
2019年
・2/10元治2 ◆2/8(3.5)【京】老中阿部正外、容保と会し、速な東下・滞府の上の将軍輔佐を促す ◆2/9(3.6)【京】久光の使者小松帯刀・大久保一蔵、中川宮に謁し、参勤交代停止の朝命を請う。金百両献上。
・ 2/9元治2◆2/6(3.3)【京】二条関白、中川宮に朝議の「紛転」を告げ、早々の参内を求める/本庄宗秀、慶喜に対し、将軍上洛中止・上洛督促の勅使下向の際の辞職の幕議決定を告げ、幕兵による御所守衛と慶喜・容保・定敬東帰実現の使命を述べる。 ◆2/7(3.4)【京】老中阿部正外の率兵入京/一橋家黒川嘉兵衛、中川宮に慶喜がききとった老中本庄宗秀の使命等を伝える
・ 2/4元治2 ◆2/5(3.2)【京】老中本庄宗秀の率兵入京【江】幕府、大目付駒井朝温・目付御手洗幹一郎に長州藩主父子の江戸護送を命ず/五卿警衛五藩に、三条実美等の江戸護送を命ず/征長総督徳川慶勝に、速な出府を命ず
・2/3元治2 ◆2/4(3.1)【京】老中の上京につき、容保の東下のための暇の参内中止/容保東下猶予の内旨伝達【敦賀】天狗党の処刑、始まる
・2/3元治2 ◆2/2(2.27)【京】会津藩公用人倉沢右兵衛、中川宮に、容保下向の間、浮説に同様せぬよう頼入る/中川宮、肥後藩留守居上田久兵衛の容保東下猶予論に同意し、二条関白に使者として派遣/二条関白、久兵衛の入説により老中参内までの容保の東下猶予に同意 ◆2/3【京】 容保出立延期の御前会議。会津藩、出立延期を承諾。
・1/30元治2 ◆1/30(2.25)【京】容保、将軍上洛を促すための東下願いを朝廷に提出 ◆2/1(2.26)【京】守護職容保の東下願い勅許/【京】松平容保、正親町三条実愛と「両敬の因」を結ぶ
・1/27↓に 本庄・阿部老中上京関係追加【越】春嶽、近衛前関白に書を送り、慶喜の江戸召喚反対(将軍上坂までの滞留)を入説【江】薩藩留守居添役柴山良助、報告書に、老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上京とその目的(慶喜召喚要請と将軍上洛中止の説明)、幕府の復古的政策への諸藩の不満等)を記すを追加
・1/26元治2 ◆1/29(2.24)【京】二条関白、中川宮に尾張・会津の内願検討の評議開催を通知し、参内を求める。中川宮、返書にて、尾張の論を「非」、会津の論を「是」と述べる/会津藩公用人野村左兵衛、慶喜・二条関白に容保東下の決意を述べ、諸侯召集猶予を求める。慶喜・慶勝、会津藩の主張を受け入れる/野村左兵衛、議奏正親町三条実愛に時勢と「両敬」について相談
・1/20元治2 ◆1/28【京】慶勝、慶喜に長州処分のため有力諸侯諸侯召集を求める。/会津藩、尾張藩に諸侯召集猶予を申し入れる)
・1/19慶応1 ◆1/26【京】徳川慶勝、藩士田宮如雲を会津藩に派遣&会津藩公用人野村左兵衛を呼んで容保東下中止を説得させる【京】肥後藩上田久兵衛、六条有容父子から、25日に一会桑から諸藩召集不可の建言があり、容保東下もとりやめになったときく/加賀藩士、越前藩士に、両老中上京の趣意は、諸政委任、慶喜のこと(召喚)、兵庫開港かとの憶測を述べる ◆1/27【京】所司代松平定敬に、18日の勅に従った将軍上坂(or上洛)の朝命をかさねて伝達
・1/19慶応1◆1/24尾張藩の諸侯召集内願/会津藩公用方広沢富次郎、容保東下の決意を中川宮に知らせる/会・桑公用人、一橋邸訪問を追加
・1/7慶応1◆1/24【京】征長総督徳川慶勝、着京//肥後留守居上田久兵衛、一橋家臣川村に慶喜の諸侯召集を批判/【肥後】藩主弟長岡良之助(細川護美)、島津久光に書を復し、有力諸侯召集周旋のための「かりそめ」の上京は困難だと述べる
・1/6慶応1◆1/19【京】禁裏守衛総督一橋慶喜、幕府に天狗党を引き渡しを奏上【京】中川宮・上田久兵衛、二老中上京情報を入手【坂】茂昭、着坂。尾張藩士若井鍬吉、越前本陣を訪ねて諸侯召集の首尾を語る(二条関白・中川宮・会津は同意せず【江】老中本庄宗秀、江戸出立
・1/3慶応1 ◆1/18【京】将軍家茂に長州処分のための速やかな上坂の勅、征長総督徳川慶勝に暫時滞留の朝命。
・1/2慶応1 ◆1/8【江】老中松前崇広帰府/【越前】春嶽、山階宮へ書を復し、将軍の急速上洛による国是決定が急務であると説く。/春嶽、伊達宗城へ書を復し、朝幕融和のためには、有力諸侯召集は将軍上洛後にすべきと述べる。【京】この頃、尾張藩士若井鍬吉、有力諸侯召集につき、一橋慶喜及び近衛忠房の同意を得る (これに関連して元治1年の諸侯召集関連をup

2018年
・12/30慶応1 ◆1/15【江】幕府、長州処分の江戸での決定&将軍進発延期を布令
・12/24慶応1 ◆1/5(1.31)【芸州】夕、幕府の上使大目付大久保忠宣・目付山口直毅、慶勝に追いつき、征長総督徳川慶勝、長州藩主父子と五卿の江戸護送&後命あるまでの撤兵不可の幕命を伝える。慶勝、了承せず。
・12/23慶応1 ◆1/4(1.30)【芸州】征長総督、広島出立/幕府の上使、行き違いで到着/
・12/22「開国-開城」元治1年(30)第一次幕長戦争と水戸浪士(天狗)西上 「薩摩藩かけあし事件簿」元治1年
・10/8「開国-開城」元治1年(29)長州藩の東上と禁門の変(蛤御門の変)に西郷隆盛の報じた池田屋事件〜禁門の変を整理
・10/7「守護職かけあし事件簿」 元治1(1864)
・10/4「守護職かけあし事件簿」 文久3(1863)に「会薩中川宮連合と禁門の政変」「政変後の守護職」追加
・9/26元治1 ◆12/27【芸州】巡検使復命。征長総督徳川慶勝、出征諸藩に撒兵帰休を命ず
・9/24元治1 ◆12/22【海津】一橋慶喜、朝廷による天狗党処分が済み次第早期帰京の沙汰に請書を提出/慶喜、老中松前崇広に書を送り、自身の帰京までの滞京を求める【京】若年寄立花種恭、入京◆12/23(1.20)【京】老中松前崇広、慶喜に滞京不可の陳弁書を、容保・定敬に将軍進発尽力に係る極秘の書を送る ◆12/24(1.21)【京】老中松前崇広、退京【敦賀】加賀藩、降伏した天狗党を監護 ◆12/26(1.23)【京】関白二条斉敬、若年寄立花種恭による一橋慶喜東下の許可内願を退ける。/中川宮、嵯峨実愛に諸藩が内大臣を疑っていると伝える/慶喜帰京。 
・9/16「開国-開城」元治1年 (28)横浜鎖港&天狗党追討問題と江戸の政変、四国連合艦隊の下関砲撃事件 (29)長州藩の東上と禁門の変(蛤御門の変)
・9/23元治1◆12/17(1.14)【梅津】慶喜、二条関白への使者と書を送り、松前老中上京に警戒を示す ◆12/18(1.15)【京】朝廷、松前老中への応答は慶喜帰還まで見合わせることを決定。一会、松前に面談し、将軍進発促進に東帰を説得【江】幕府、勘定奉行駒井朝温を大目付に、大目付松平康正を勘定奉行に、勘定奉行小栗忠順を軍艦奉行に任命。◆12/20(.1.17)【京】朝廷、禁裏守衛総督徳川慶喜に、速かな天狗党処置の完了・東帰を命令。【萩】恭順:巡検使、山口城破却を視察し、萩着 ◆12/21(1.18)【海津】天狗西上:一橋慶喜、武田耕雲斎等の降伏を容れ、加賀金沢藩に預ける/慶喜、伊達宗城に書を送り、征長総督徳川慶勝への不満や老中松前崇広の底意について言及。
・9/22元治1◆12/16(1.13)【敦賀】武田耕雲斎ら天狗党、加賀藩隊長永原甚七郎に降伏書を送る
・9/21元治1 ◆12/15(1.12)【京】老中松前崇広、歩兵部隊を率いて陸路入京/【長州】高杉晋作ら功山寺挙兵
・9/20元治1◆12/13(1.10) 【近江】加賀藩、慶喜宛の耕雲斎らの嘆願書を提出。幕府大目付、降伏書ではないとして退け、加賀藩・諸藩に慶喜の「賊徒」討伐令を達する【京】老中松前崇広、京都所司代に対し、京都警衛強化のための急遽上京を知らせる【京】小松帯刀、大久保一蔵に書を送り、幕府と慶喜の対立を「面白き事」と報じる【京】薩嫌疑:海江田武次、大久保一蔵に、薩摩への嫌疑が起っていることを知らせる
・9/19「幕末水戸藩」主要事件元治1年
・9/18↓微修正 
・9/16「開国-開城」元治1年 (28)横浜鎖港&天狗党追討問題と江戸の政変、四国連合艦隊の下関砲撃事件 (29)長州藩の東上と禁門の変(蛤御門の変)
・9/15元治112.12に【敦賀】武田耕雲斎ら、慶喜の先鋒・加賀藩への抗戦を回避し、慶喜宛の嘆願書・始末書を提出 追加
・9/12元治1 ◆12/12(1.9)【大津】天狗西上:慶喜、二条関白に書を送り、水戸藩主徳川慶篤処分・天狗党救解の内議の不可を論じ、慶喜留守中は会桑への相談を要請/薩嫌疑:慶喜、肥後藩主弟長岡良之助(護美)に書を送り、征長の情勢、特に総督徳川慶勝が「芋に酔い、芋の銘は大島」という説の真偽、三家老首級返還の総督の「底意」を知らせてほしいと依頼
・9/11元治1 ◆12/9(1.6)【京】老中1-2名召命の勅諚
・9/10元治1 ◆12/5(1.2)【大津】天狗西上:一橋慶喜、松平春嶽に対し、慶喜出陣は説得目的という説は「去る雄藩」の言い触らす「反間之説」だと否定。注意を促す【芸州】恭順:長州藩、征長総督に、藩主父子の謝罪書・総督の令達の請書を提出/ ◆12/8(1.5)【芸州】恭順:征長総督徳川慶勝、諸藩の重臣を召し、長州藩主父子恭順待罪、五卿の筑前移転、山口城破却を告げるまた、長州藩処分意見書の提出及参集を慰労する
・9/9 元治112/2(12.30)【京】薩嫌疑:薩藩に討幕の意があり、内大臣近衛忠房が同意との説、廷臣間に行われる(10日には「大島(西郷)裏表」との説も。 ◆12/3(12.31)【京】天狗西上:慶喜、天狗党追討軍を指揮して京都を出立【江】薩摩藩士高崎左太郎(正風)、勝海舟を訪問(老中松前崇広西上の裏の事情(一橋慶喜の江戸召喚)等を話す)
・9/8元治1◆11/26(12.24)【京】恭順:朝議、長州藩の処置を議す。決せず【京】小松帯刀、国許に書を送り、一橋慶喜に対して、幕府の一会桑の江戸召喚&朝廷軽蔑回帰阻止には、老中取り換えか諸藩・朝廷と連携した政変かだと使嗾したこと、勝の海軍私塾の浪人をかくまっている事等を報じる。◆11/28(12.26)【京】薩嫌疑:肥後藩留守居役上田久兵衛、征長総督の和議論の裏に西郷隆盛{「奸賊ナリ」)がいることを知る【芸州】恭順:征長総督徳川慶勝、芸州藩に命じ、長州藩の恭順実行を同支族吉川経幹に促させる ◆11/30(12.28)【京】天狗西上:朝廷、慶喜の懇願により、西上する天狗党追討の出陣を許可
・9/8元治1◆11/14(12.12)【江】将軍進発:東下中の会津公用人小森久太郎、京都に書を送り、老中阿部正外が他の幕閣と「一つ穴の狐」である可能性、白河藩士への用心の必要性を報じる追加 ◆11/23(12.21)【京】将軍進発:御前会議にて、将軍進発督促の勅使の中止決定/老中召命の評議【江】老中松前崇広、一橋慶喜の江戸連れ戻しのために陸路西上へ【小倉】西郷・吉井、越前藩陣営訪問 ◆11/24(12.22)【京】将軍進発:この頃、守護職松平容保、自らの東下・将軍進発督促を決心し、一橋慶喜に相談するが、止められる
・9/2元治1◆11/13(12.11)【京】 薩摩藩邸潜伏中の吉川家家臣、国許に書状を送り、小松帯刀から、中川宮・二条関白に働きかけた結果、幕府が「粗暴の処置」をせぬよう薩摩藩が周旋せよとの天皇の意向があったと聞いたこと等を知らせる ◆11/17(12.15)【京】中川宮、肥後藩留守居上田久兵衛を召し出し、、薩摩藩家老小松帯刀の「反復之計策」について内々に相談 ◆9/30(10.30) 【岩国】筑前藩士喜多岡勇平、薩摩藩士高崎五六、岩国着。高崎、長州藩支族吉川経幹の家士香川諒・横道八郎次等と会し、長州と「私怨」はなく、雄藩連合による皇国挽回のため、是非恭順周旋に尽力したいと申し入れる(他藩と違って本気とアピール)を追加
・9/1元治1◆11/14(12.12)【芸州】征長総督徳川慶勝、諸道の出征諸藩に令し、進撃日限「十八日」を延期す(長州藩主父子伏罪の情が見えるため)  ◆11/18(12.16)【芸州】征長総督府、禁門の変出陣の元三家老の首級を改める。長州藩主父子恭順の状及び進撃猶予の令達を朝廷・幕府に上申。 ◆11/19(12.17)【京】肥後藩留守居役上田久兵衛、会津藩倉沢右兵衛と会談/国許への書状で薩摩藩家老小松帯刀を天下を乱す悪人と記す【芸州】征長総督徳川慶勝、長州藩支族吉川経幹に対し、三条件(@長州藩征討令に対する請書の提出、A山口新城の破却、B五卿の引き渡し)を達する ◆11/23(12.21)【京】御前会議にて、将軍進発督促の勅使の中止決定
・8/31元治1◆11/10(12.8)【京】御前会議において、将軍家茂進発督促の勅使派遣は見合せることを決定/【江】勝海舟、軍艦奉行罷免 
・8/27元治1◆11/2(11.30)【京】守護職松平容保、将軍及び幕閣に勅使派遣の評議を伝えて、将軍上洛を再度督促(使者小森久太郎を東下させる 【坂】征長副将松平茂昭、海路九州へ出立【江】勝海舟、帰府。【長州】前関白近衛忠煕の使者森寛斎、萩に著し、密旨萩藩主毛利敬親に伝える/萩藩支族吉川経幹、家老吉川勇記・用人塩谷鼎助を広島藩に遣し、同藩に会して征長総督徳川慶勝に嘆願書提出(宗藩元家老の首実検、参謀の処分、元中納言三条実美等を他に移転による攻撃猶予の嘆願) ◆11/4(12.2)【岩国】征長総督徳川慶勝の密使(薩摩藩士西郷吉之助・吉井幸輔・税所長蔵)、長州藩支族吉川経幹に面し、三家老の処刑及激徒の処分を急速に行うよう勧める 
・8/26元治1◆10/24(11.23)【京】守護職松平容保、在府老中に書を認め、将軍進発を促すとともに一橋慶喜の召喚(風聞)に異を唱える【坂】征長総督徳川慶勝、 【坂】尾張藩、越前藩に対し、征長に関する総督府の三策(@父子降伏&吉川監物による過激派退治による謝罪の際は、幕府に寛大な処置を請う、A萩で降伏の際は、諸藩で過激派を治め、朝廷・幕府に許しを請う。公儀が苛酷な処置をすれば抗議する、B攻撃)を示す/征長総督徳川慶勝、薩摩藩西郷吉之助の求めによって引見し、長州恭順周旋のための芸州密行に同意する。【坂】征長副将松平茂昭、家臣を老中稲葉正邦に遣し、汽船貸与及目付派遣を促し、軍艦奉行勝海舟同行を請う/【坂】勝海舟、陸路帰府へ。淀川を上って伏見に到る。途中、尾張藩兵三千人が大坂へ向かうのを目撃
・8/21元治1 ◆10/20(11.19)【岩国】征長総督の密使、長州支族・岩国領主吉川経幹と会し、恭順謝罪すれば寛大な処分になると説く【京】老中稲葉正邦、京を発して帰藩/【坂】】軍艦奉行勝海舟、大目付永井尚志・軍目付と会い、征長戦への船の融通について話し合う【坂】勝、越前藩からの征長副将九州出張への同行打診に「命下れば辞さず」と回答 ◆10/21(11.20) 【岩国】吉川経幹、征長総督徳川慶勝の密使に嘆願書を託し、家臣を上坂させる【坂】薩摩藩士高崎五六、長州藩支族・岩国領主吉川経幹の家老等に対し、長州恭順周旋に対する諸藩の好反応や西郷隆盛の芸州出張計画を報じる。 ◆10/22(11.21)【坂】征長総督徳川慶勝、大坂城で軍議を開き、11月11日の布陣完了・18日の攻撃開始を命令【坂】軍艦奉行勝海舟、大坂城代より、江戸表での御用のため帰還を命じられる
・8/20 元治1 ◆10/15(11.14)【京】征長総督徳川慶勝、京都を発して大坂に/薩摩藩士西郷・吉井幸輔下坂【衛士】近藤、伊東ら28名江戸出発10/16(11.15)【京】朝廷、守護職松平容保に対し、征長完了まで、凝華洞への滞留・御所警備を命じる【衛士】大村安宅、嫌疑を避けて間道に入る
・8/19 元治110/12(11.11)【京】西郷吉之助、国許の大久保一蔵に書を認め、幕府の長州末家への厳しい処分を拙策とし長州人に長州人を処置させる(恭順論の吉川経幹の利用)べきだと繰り返す【神】故障のフランス船、兵庫入港。勝海舟、上陸は断り、石炭等を与える【衛士】東下中の会津藩公用人、野村左兵衛、近藤勇の隊士募集に応じた伊東甲子太郎等22名の人別を藩庁に届け、京都に知らせるよう要請
・8/18 元治110/11(11.10)【京】徳川慶勝、軍事委任状を受領/征長総督府、出征諸藩に、11月11日の布陣完了を達し、慶勝の15日の下坂・軍議開催を告げる。【江】老中阿部正外帰府/)近藤勇、松本良順に外国の事情を尋ねる
・8/11 元治1◆10./4(11.3)【江】将軍、征長総督徳川慶勝に黒印の軍事委任状交付 ◆10./5(11.4)【京】前名古屋藩主徳川慶勝、征長総督奉命を幕府に稟し、且軍令状を請う ◆10/8(11.7)【京】薩摩藩士西郷隆盛(吉之助)書を在藩の大久保利通(一蔵)に認め、征長準備・長州藩等の情勢・所見を告げ、帰国命令猶予の執成しを依頼
・8/5 元治1◆10/3(11.2)【京】徳川慶勝、副将松平茂昭・老中稲葉正邦・大目付永井尚志・目付戸川忠愛等と会し、軍務を議す。【坂】勝海舟、阿部正外から京都での努力を聞き、感じ入る
・7/29 元治1◆9/24(10.24)【京】将軍進発:老中阿部正外参内し、将軍進発遅延を報告。外国の主張・横浜鎖港の困難さを説く。/征長副将松平茂昭、徳川慶勝を訪ね、軍略を質す。慶勝、将軍徳川家茂進発の要を説く。 ◆10/1(9/31)【京】朝廷、参内した禁裏守衛総督一橋慶喜・老中阿部正外に、征長までの鎖港猶予、将軍の速やかな上坂を命じる【江】幕府、将軍徳川家茂随従者の進発期日(10月10日頃)を布告。
・7/28◆9/16【京】吉井幸輔、国許の大久保利通に、11日の勝との会談を報じ、一翁・小楠・勝の議論(征長・幕吏弾劾・公議政体論)しか道はないと述べるを追加
・7/20元治1◆9/21(10.21)【京】前尾張藩主徳川慶勝、率兵入京/越前藩酒井十之丞・中根雪江と共に、再び正外を訪ね、対策を献ず。
・6/16 元治1◆9/19(10.19)【京】越前藩士酒井十之丞、老中阿部正外を訪ね、開国の廟算を確立すべきを説く。/ 【京】西郷吉之助、大久保一蔵に書を送り、征長が決まれば自ら広島へ赴き、長州藩と支藩を離間させる計画だと告げる【神戸?】勝海舟、日記に神戸塾(私塾)の塾生の姓名・出所が内々に調べられているらしい記す
・6/16過去ログ再整理で■勝海舟@文久3年勝海舟@元治1年(9月まで)更新
・6/10↓に阿部老中と越前藩重臣の諸侯国是会議に関するやり取りを本多修理日記から追加
・6/9◆9/16(10.16)【【京】征長副将松平茂昭、老中阿部正外を訪ね、徳川慶勝の征長総督拝任の有無及将軍の進発期を問う/老中阿部、茂昭に、征長後の将軍滞坂・諸侯を集めた国是決定への春嶽の参加を要請/阿部、勝海舟の重用を保留/【京】西郷、国許の大久保に,書を送り、勝海舟との初対面の様子を報じ、「共和政治」を論じる【江】幕府、唐津藩世子小笠原長行を赦免し、官位を復す。
・6/8元治1◆9/14(10.14)【尾張】前尾張藩主徳川慶勝、名古屋を発し、上京の途に就く。/【京】幕府、京都守護職松平容保の在職中、毎月金一万両・米二千俵を給す。
・6/6元治1◆9/13【京】阿部老中、越前藩に征長の指図はできないと伝える【江】会津藩江戸家老上田一学、京都に守護職使者による将軍進発等の周旋の状況を知らせる/肥後藩森井惣四郎、東下諸藩の事情を報告
・6/4↓に【坂】勝海舟、肥後藩士長谷仁右衛門に、有力諸侯の急速上京による征長協議、列藩連印によ兵庫開港交渉を論じるを追加
・6/2元治19/11(10.11)【坂】勝海舟、老中阿部正外から長州処分に係る薩摩藩の強硬意見を聞く【坂】薩摩藩士西郷隆盛・吉井幸輔、越前藩士青山小三郎・堤五一郎、勝を訪ねて、将軍上洛周旋を依頼するが、断られる。勝、兵庫開港問題に関し、幕府を外した有力諸侯による国是決定を論じる
・5/28元治1◆9/10(10.10)【京】 一橋用人黒川嘉兵衛、越前藩中根雪江に対し、将軍進発について関東のいうことは信用できないため、建議を実行するよう勧める。【坂】大坂町奉行松平信敏、軍艦奉行勝海舟に対し、幕政における老中諏訪忠誠の専横を語る
・5/25元治1◆9/9(10.9)【京】一橋公用人黒川嘉兵衛、越前藩の将軍上洛建議に同意する。【坂】老中阿部正外、海路着坂。軍艦奉行勝海舟、阿部と面談。【江】東下中の会津藩公用人野村左兵衛ら、老中に征長総督に一橋慶喜を提案し、顰蹙を買う【江】(御陵衛士前史)近藤勇ら、将軍進発御供衆の奮発鼓舞誘引&隊士募集のため、江戸到着
・5/17元治1◆9/8(10.8)【京】将軍進発:在京越前藩重臣等、将軍上洛建議を決す/西郷吉之助、大久保一蔵に書を認め、9月1日に京を発った有馬新助・海江田信義に将軍上洛周旋を指示していたことなどを知らせる。
・5/16元治1◆9/7(10.7)【京】征長副将松平茂昭、禁裏守衛総督一橋慶喜・老中稲葉正邦を訪ね、征長総督確定・将軍徳川家茂上洛の緊急なるを説く。/西郷吉之助、大久保一蔵に書を認め、江戸幕閣による慶喜の疎外等の近情、越前藩主松平茂昭を通した幕府への建議、総督未定の場合の征長副将以下出陣の周旋等の方針を知らせるなど
・5/15元治1◆9/6(10.6)【京】征長:越前藩主(征長副将)率兵入京【江】幕府、四国代表とに会し下関事件の償金及同港開港の事を議し、下関償金は戦費の名目で幕府が支給し、開港諾否は、老中阿部正外の帰府後決定すべきと決す。/【横/江】四ヵ国公使、条約破棄に関する警告の書状を送る(4〜6日)
・5/13◆9/4(10.4)【京】土佐藩、中川宮の将軍上坂の周旋依頼を固辞する【江】会津藩江戸家老上田一学、老中阿部正外東下の事情等を京都に報じ、開国やむなしを進言/東下中の京都公用人野村左兵衛等、開国やむなしの事情・諸侯会議による閉鎖決定を進言
・5/12元治1◆9/1(10.1)【京】一橋慶喜、征長副将以下出陣の朝命につき、齟齬が起きぬよう取り計らいは江戸に任せるよう陳情【京】因幡藩留守居役安達清風に、大目付永井尚志は、江戸の事情がよくわからない様子だと日記に記す。【江】参勤交代・大名妻子の在府復旧の令勤交代の復旧/
・5/11元治1◆8/30(9.30)【京】朝廷、征長総督決定の督促・慶勝の就任遷延の際は、副将以下諸藩を進撃させるよう命じる
・5/10元治1◆8/28(9.28)【京】徳川慶勝、征長総督辞退書を朝廷に提出【尾張】徳川慶勝、会津藩・桑名藩の入説により、総督の後任に一橋慶喜を推す直書を老中宛に認める。【江】在府会津藩士柴太一郎「秀治」幕府の内情(慶喜への疑念、会津藩を疎外)及将軍徳川家茂上洛遅延の事情を、在京同藩士に報ず【福】征長副将松平茂昭、兵を率いて、上京の途に就く
・5/5元治1◆8/25(9.25)【京】将軍に急速上坂の朝命(30日説あり)【京】会津藩・桑名藩・肥後藩、徳川慶勝に征長総督の早期就任、固辞の場合は一橋慶喜の後任指名で一致、会津・桑名家士を名古屋に派遣【紀州?】紀州藩主徳川茂承、家中の鋭気を挫かぬため、将軍家茂進発に先鋒を幕府に請う。
・5/4元治1◆8/19(9.19)【京】一会桑(禁裏守衛総督一橋慶喜・京都守護職松平容保・所司代松平定敬)、将軍徳川家茂の進発・外国艦隊の長州撤退説得を促すため、それぞれ使者を海路東下させる/慶喜、会津藩に(江戸の定めた征長部署)を通達 ◆8/23(9.23)【京】朝廷、守護護職松平容保に命じ、暫く凝華洞「禁闕内」に宿衛を命じる/【名】前尾張藩主徳川慶勝、一橋慶喜に書を復し、病のため征長総督の台命を辞したことを告げ、朝廷への執成しを依頼。/【神戸】坂本龍馬、京都の事情を勝海舟に伝える(会津藩・新選組の不評)/
・5/2元治1◆8/17(9.17)【京】一橋慶喜、越前藩中根雪江に対し、征長の軍略は総督次第と述べる【京】薩摩・肥後・越前・会津・土佐・久留米・桑名の諸藩士、京都三本木の旗亭に会し、外国艦を長州領より退去させた後、長州処分を行うよう、会津藩から慶喜に建議することを決定/ 【京】薩摩藩士西郷吉之助(隆盛)、国許の大久保一蔵(利通)への書簡の中で、外国艦下関来襲の黒幕は幕府との意見を述べる
・5/1元治1◆8/16(9.16)【京】紀州藩邸、越前藩士中根雪江に対し、藩主茂承の総督任命を知らないと述べる/一橋用人黒川嘉兵衛、中根に対し、征長総督は徳川慶勝任命を「真」と判断していること、征長部署の計画には関与していないことを述べる【京】所司代、越前藩の問い合わせに対し、総督不在の間、征長の指揮を老中稲葉正邦に受けるよう命じる
・4/30元治1 ◆8/12近衛忠房、久光父子に書を送り、帰国する小松帯刀への朝廷・慶喜の「厚依頼」、帯刀の早期再上京を促す/【神】慶喜、勝海舟に姫島に赴き、四国艦隊の下関攻撃停止説得するよう命じる を追加
・4/25「元治1◆8/7(9.7)【神戸】慶喜、軍艦奉行勝海舟(義邦)に、摂海侵入の外国艦があれば、応接して退去させることを命じる。/【江】幕府、紀州藩主徳川茂承の代わりに、前尾張藩主徳川慶勝に総督を命じる◆8/13(9.13【江】幕府、征長部署布告。総督徳川慶勝・副将松平茂昭に当月中の出陣を命ず◆8/14(9.14)【京】前関白鷹司輔煕・大納言鷹司輔政の参朝停止を解く/【長州】長州藩、四国と講和条約を結ぶ。
・4/22「元治1◆7/27(8.28)【京】朝議。長州荷担公卿の処分決定/ ◆7/28(8.29)【京】小松&西郷、越前藩中根雪江・酒井十之丞に書簡を送り、春嶽上京を促す ◆8/2(9.2)【江】将軍徳川家茂、諸侯・有司を召見し、長州征討に自ら進発する旨を表明 ◆8/4(9.4)【坂】老中阿部正外、禁裏守衛総督一橋慶喜の入説で、将軍上洛・征長指揮を促すため、会津藩士を伴い、海路東帰/勝海舟、続いて東帰する若年寄稲葉正巳に対し、薩摩藩士を伴うことを勧める【江】幕府、紀伊藩主主徳川茂承長州征討の総督を、越前藩主松平茂昭に同副将を命ず
・4/21「元治1◆7/25(8.26)【京】慶喜、容保に朝命を心得に伝達/越前藩、幕府(所司代)にj春嶽の上京不可の返答【長】五卿、上関着。◆7/26(8.27)【京】慶喜・容保、前越前藩主松平春嶽に書を認め、征長副将要請・上京を促す
・4/21「元治1◆7/24(8.25)に会津藩に伝達された征長部署案」を追加 
・4/15「元治1 ◆7/24(8.25)【京】西国諸藩に長州藩追討の幕命。/【江】横浜鎖港:パリの廃約を四国代表に通知
・4/14「元治1◆7/21(8.22)【京】京都町奉行、親長州派公卿家臣の拘禁/幕府、罹災者に米を支給【洛外】山崎天王山の戦い。長州敗北。真木和泉ら自刃。 【長州藩】世子毛利定広、東上を中止し、帰国の途へ◆7/22(8.23)【京】慶喜、薩藩小松帯刀の進言により、将軍進発要請の使者永井尚志を江戸に派遣京都町奉行、避難民の帰住及び長州残党の通報を促す制札を掲示/ ◆7/23(8.24)【京】慶喜に長州藩追討の朝命伝達/慶喜、江戸に使者を派遣し、jこの件を報じる/守護職松平容保、江戸の老中に書を送り、将軍の急遽上洛・指揮・閣内融和等を説く、慶喜の「尽力」にも触れる 【長】四国艦隊来襲対策会議。禁門の変の報が藩庁に届く
・4/14守護職日誌元治1  薩摩藩日誌元治1 更新
・4/8「元治1◆7/20(8.21) 【京】洛中・外の長州残党追討、一会桑、御所内を捜索。/六角獄の大量刑死/薩藩・小松、国許の大久保に禁門の変を報じ、慶喜の活躍に言及/薩藩西郷、大久保に「薩兵あらずんば危き次第」と報じる/勝海舟の会津・薩摩批判
・4/7「元治1◆7/19(8.20)【京】長州勢討伐の勅、禁門(蛤御門)の変勃発、長州勢敗走/どんどん焼け、「志士詩歌」「禁門の変(蛤御門の変)」(←リンク切れしていました)
・4/1◆7/18(8.19) 【京】昼前、長州に同日限りの撤兵の朝命/禁裏守衛総督一橋慶喜、長州藩留守居に撤兵を最終勧告/有栖川宮・親長州公卿、急遽参内。容保追放を主張/召により、二条関白、中川宮・山階宮ら幕府協調派参内/洛外の長州勢進発開始。長州藩、容保弾劾・天誅の上書を諸藩・所司代に送致。
・3/4「元治1◆7/18(8.19) 【京】昼前、長州に同日限りの撤兵の朝命/】禁裏守衛総督一橋慶喜、長州藩留守居に撤兵を最終勧告/長州、会津藩主松平容保弾劾・追放の上書を朝・幕・諸藩に投じる/
・2/10「元治1◆7/17(8.18) 【京】薩摩・土佐・越前藩等、速やかな長州「討伐」を決議。朝幕要路に討伐の勅命を周旋。薩土久留米藩士、「断然の処置」を速かに求める上書【京】松平容保、兄徳川慶勝に慶喜批判&上京を促す書簡/会津藩士&新選組、征討慎重派慶喜の宿舎に乱入【男山】長州軍、松平容保討伐を名義にした進軍を決定 【京】朝議(慶喜参加)。長州撤兵を命じ、拒否すれば追討、に決る
・2/9「元治1◆7/16(8.17)【京】長州入京:慶喜、17日限りの長州退京を勧告のため、大小監察を、四度、伏見に派遣 【京】薩摩藩、諸藩会合主宰。長州征討で一致(会津抜き)【京】薩摩・土佐・久留米藩士、中川宮を訪ね、「速かな勇断」を求める
・2/8「元治1 ◆7/15(8.16)【京】長州入京:朝議、勅使派遣による説諭を決定【京】薩摩藩吉井幸輔、土佐藩乾市郎平、久留米藩大塚敬介、朝廷要路を訪ね、従来の朝命維持を求める。【京】薩摩藩西郷隆盛、(ようやく)在京諸藩の会合に出席。対長州強硬論を主張
・2/4「元治1 ◆7/9(8.10)【京】西郷隆盛、書を在藩の大久保利通に送り、一橋慶喜の手柄になる長州撤兵説得の拒否、追討の勅命を奉じた上での長州「駆尽」の決意などを報じる ◆7/10(8.11)【京】会津藩の天皇遷幸企図、佐久間象山の関与を糾弾する投書◆7/13(8.14) 【坂】長州藩家老益田右衛門、兵を率いて着坂【京】慶喜、長州藩留守居乃美織江を召し、家老福原越後等の大坂退去を諭すp ◆7/14(8.15)【京】容保を九門外に出すようにとの建議/【伏見】長州藩家老福原越後、大坂退去を拒否。国司信濃とともに、天皇遷幸説の出処(※会津藩想定)糾明を求める新たな嘆願書提出
・2/2「元治1 ◆7/1(8.2)【京】長州入京:家老福原越後、朝幕に藩主父子・三条実美らの入京嘆願に【京】薩摩藩小松帯刀、禁裏守衛総督一橋慶喜の要請による出兵を断り、朝命なら出兵すると回答を追加 ◆7/4(8.5)【伏見】大目付永井尚志、長州家老福原越後に撤兵の朝命を伝える(2度目の撤兵勧告)に【京】薩摩藩藩西郷隆盛、書を在藩大久保利通に送り、京師の情勢・公武の事情を再報)を追加
・1/31「元治1◆6/27(7.30)【京】長州、京都来襲の噂。守護職松平容保・会津藩兵御所内に宿陣。長州入京に関する朝議。一橋慶喜、長州撤兵を主張。慶喜の論で決着【京】薩藩小松帯刀、国許家老に京都出兵を要請/西郷、大久保に長州征討もやむなしと報じるを追加
・1/27「元治1 ◆6/24に【京】朝議。中川宮・会津・桑名、長州勢の即時討伐を主張するが、一橋慶喜の説諭論で決まる。を追加
・1/23「元治1◆6/24【京】長州入京:福原越後と遊撃隊500名余、伏見到着。真木和泉・久坂玄瑞ら諸隊、山崎屯集。稲葉老中に嘆願書を提出/薩摩藩留守居役、朝廷守衛を理由に淀出兵の幕命を拒否/ ◆6/25【京】長州入京:山崎屯集の真木・久坂・入江等、在京諸藩に入京斡旋を依頼/【京】西郷、大久保に長州の伏見到着とこの「戦争」を「長会の私闘」ととらえ、静観・朝廷守衛に専念する方針をを報知
・1/20「元治1 ◆6/21【京】西郷、国許の大久保に池田屋事件後の情勢を報知【坂】長州東上:真木和泉・久坂玄瑞の率いる先発諸隊、着坂。 ◆6/22【京】薩摩藩小松帯刀、京都の情勢を国許の大久保利通に報ず/長州東上::家老福原越後、遊撃隊着坂
・1/13「元治1◆6/14【京】西郷、国許の大久保に池田屋事件・明保野亭事件に係る風説、長州における討幕説、中川宮の辞職周旋などを報じる
・1/8「元治1◆6/8【京】に西郷、国許の大久保に池田屋事件を報知。慶喜の黒幕説、薩摩は中立を保つことを伝える。を追加。
・1/7「元治1◆6/1【京】に「西郷、国許の大久保に、外国の長州襲来は幕府(一橋慶喜)の陰謀だとの見方等を伝える」追加◆6/6(池田屋事件翌日)に【坂】西郷、国許の大久保に京都の情勢を報知(長州による変事発生の憂慮、薩摩藩の評判回復追加
・1/6「元治1」◆6/2【京】】西郷、国許の大久保に中川宮の悪評を報知、小松帯刀の帰国見合わせ・両高崎の国許滞留を要請
・1/5「志士詩歌」「膳所事件

2013年
・1/19「今日」文久3年禁門の政変直前◆8/16【京】西国鎮撫使:朝廷、中川宮に代り、有栖川宮熾仁親王に西国鎮撫使を命じるを追加
・1/19「今日」文久3年禁門の政変直前。薩摩の動き◆8/9(7)【小倉】上京途上の薩摩藩士村山斉助、越・薩・肥後連合の同時上京に関する見込みを国許の大久保一蔵(利通)に報じ、薩摩藩の早期決断・大挙上京を促すを追加
・1/14「今日」文久3年禁門の政変直前。薩摩の動きを追加 ◆8/5【京】薩摩藩奈良原幸五郎(繁)、国許の大久保一蔵(利通)・中山中左衛門に、今の形勢では久光の「御趣意」が立たないと報じる。高崎左太郎(正風)、「御趣意」を不可能にした京都の形勢を報じる
・1/8「今日」文久3年禁門の政変直前◆8/13(前)【京】親征::因幡・備前・米沢・阿波藩、天皇に親征猶予を直奏するが、本心は親征を好まぬ天皇、猶予を許容せず【京】「大和行幸(攘夷親征)」の詔公布/会津藩士激昂【江】鎖港:幕府の当月20日頃の鎖港交渉開始等を急報する慶喜書簡、京に達す追加修正
・1/7↓に【京】朝議、近日の大和行幸を治定(&急進派がことを急いだ事情とは?)を追加
・1/6「今日」文久3年禁門の政変直前◆8/12【京】親征vs西国鎮撫:二条右大臣、慶徳・茂政(のみ)に親征の朝議阻止を密命/慶徳・茂政、密命に対し、朝議のシナリオ(天皇の勅書案、慶徳ら回答案-親征布告・慶徳ら東下・攘夷断行説得の間の親征暫時見合わせ)を呈し、天皇に「御強被仰出様」求める追加
・1/3「今日」文久3年門の政変直前(親征vs西国鎮撫)◆8/10【江】 【京】親征vs西国鎮撫:西国鎮撫使辞退の中川宮、代案として八幡行幸を建議/中川宮の依頼により、因幡・備前藩主、親征建議を打ち合わせ。 ◆8/11【京】親征vs西国鎮撫:慶徳・茂政・昭訓、慶喜・老中らに、親征か西国鎮撫かの危機的情勢を知らせ即座の横浜鎖港交渉等を求める/慶徳、親征布告&祈願の八幡行幸、「廟算一定」の上の幕府への厳重な沙汰・なお幕府が因循する場合の親王による内外の征伐実行の上書案を二条斉敬右大臣に提出/守護職松平容保、慶徳に書を送り、中川宮の鎮撫将軍・小倉入城の風聞の真偽を尋ねる
・1/2↓1/1更新分に『伊達宗城在京日記』『鳥取池田家文書』の情報追加。「豆知識:将軍・大名・宮家・公家の姻戚関係」追加修正 
・1/1「幕末日誌文久3」禁門の政変直前(親征vs西国鎮撫)を追加修正◆8/7【京】孝明天皇、朝議にて、親征論を時機尚早と断固退け、代案として中川宮の西国鎮撫を主張(裏に急進派の「強奏」)おさらい:攘夷親征 ◆8/8【京】政変:中川宮に西国鎮撫使の内命◆8/9【京】中川宮、慶徳・茂政に対し、鎮撫使を沙汰やみにするための親征主張を依頼/薩摩藩士高崎左太郎、中川宮に辞退をすすめる/中川宮、u上書して西国鎮撫使の内命を辞退/慶徳、老中板倉に書を送り、親征・西国鎮撫論を報じ、小倉・小笠原処分・攘夷断行の緊急性を訴える

2012
・12/31「幕末日誌文久3」に天覧馬揃関連を追加修正◆7/30【京】天覧馬揃:雨夜、会津藩の天覧馬揃え決行(小銃空発はNG)。因幡・備前・阿波・米沢警護 ◆8/2【京】孝明天皇、会津藩に対し、馬揃えの際の手際と軍備熟練ぶりを称揚する【京】孝明天皇、会津藩に密使を送り、武備十分で事に臨んで支障がない様子を深く頼もしく思う内旨を口達させる
・12/30「幕末日誌文久3」に天覧馬揃前の動きを追加◆7/21【京】因幡藩主池田慶徳、鷹司関白に親兵の天覧馬揃を建白/ ◆7/23【京】攘夷監察:朝廷、容保に命じ、幕府に攘夷監察使派遣&沙汰書の親藩通達を伝達させる/御所警備:諸藩の親兵、交替で内講の唐門内の警衛開始/馬揃:伝奏、親兵の馬揃えは支障あり、会津にとの内意を慶徳に伝達。 ◆7/24【京】天覧馬揃:会津藩に28日の馬揃えの朝命/茂政「幕臣会津」を警戒し、馬揃えの警護を提案
・12/29「幕末日誌文久3」に天覧馬揃前の動きを追加◆7/14【京】攘夷親征&監察:因幡藩主池田慶徳、親征布告の見送り&中国西国への監察使派遣を建議 ◆7/19【京】攘夷親征&馬揃:関白、在京諸侯(因・備・阿波等)に攘夷親征を諮問。諸侯、親征に反対。慶徳、天皇・公卿が武事になれるために守護職等諸藩の馬揃を提案(因・備・阿と鷹司関白の親戚関係 ◆7/20【京】攘夷親征:急進派公卿、朝議スト/天覧馬揃:孝明天皇、鷹司関白に、会津・因幡・備前のうち二藩による馬揃を命じる/諸藩親兵の内講六門の交替警備開始
・12/26「幕末日誌文久3」に御所警備関連追加修正◆5/15【京】諸藩に出火時の御所九門外・六門の警衛を命じる◆5/21【京】御所警備:朝廷、諸藩に外講九門外警備を命令(備前・薩摩・因幡・水戸・仙台・長州・肥後・土佐・阿波。「衆人疑念ヲ懐候会津」は含まれず)  ◆5/27【京】御所警備:朝廷、会津・所司代・中津・米沢・芸州に御所六門警備を命じる(会津の強い要請。守護職・所司代は西側唐門・清所門・准后門)(贈従一位池田慶徳公御伝記、孝明天皇紀より追加修正)
・12/16「守護職/会津」「事件簿文久3年」前半up
・5/19「守護職/会津」詳細年表(文久3)」追加修正
・5/14「春嶽/越前藩」「かけあし事件簿文久3年」後半up 
・5/13「春嶽/越前藩」[詳細年表文久3」に「挙藩上京計画関係」追加修正◆6/1【越】挙藩上京して、朝廷に(1)外国公使を交えた朝幕要人の京都会議による「至当条理」に帰する開国鎖国の国是決定、(2)朝廷の裁断権・賢明諸侯の大政参加・諸藩からの人材登用,を言上することを正式に決定
・5/6「春嶽/越前藩」[詳細年表文久3」に「挙藩上京計画関係」追加修正◆4/15【越】越前藩、外国船摂海侵入時の、ニ・三の大藩と連携しての挙藩上京・「皇国萬安の国是」確立周旋方針を固め、近隣の加賀藩・小浜藩に使者を送る ◆5/12【京】紀州藩士伊達五郎、生麦事件償金支払に係る朝廷・幕府の難しい状況を中根に語る ◆5/13【京】中根、板倉老中に春嶽の意見書を提出。内容は「全世界の道理」に基づく国是検討のための外国人・朝幕諸侯・草莽の大会議開催/中根、肥後藩沼田勘解由に面会。沼田、、横井小楠の持論である雄藩の同盟合従策に賛同。 ◆5/24【越前】越前藩、挙藩上京(「道理」に基づく国是議定のための外国代表を含む京都会議言上)を大評議にかける方針を固める ◆5/26【越】越前藩、挙藩上京・外国公使を交えた京都会議・「全世界の道理」に基づいた国是決定言上を内定
・5/4「春嶽/越前藩」「詳細年表(文久3)」追加修正
・5/3「春嶽/越前藩」「かけあし事件簿文久3年」前半up (関連リンクも結構更新)
・4/25「春嶽小史」を「春嶽かけあし事件簿」に再整理。「事件簿文久2年」大幅更新
・4/21「薩摩藩」「かけあし事件簿文久3年」(関連リンクもいくつか更新)
・4/21「今日元治1◆5/19【京】慶喜、帰京/【水戸】水戸藩士長谷川作十郎、江戸の同志に対し、「痛憤之徒」慰諭には、横浜鎖港は勿論「征夷」も必要であり、真の鎖港には板倉勝静の「憤発」が不可欠だとを伝える◆5/20【江】将軍帰府/四国艦隊:幕府、蘭国総領事に下関襲撃猶予を求める【京】新選組近藤勇、老中に将軍滞留中の鎖港断行・長州処分決定か新選組解散かを迫ったことを、故郷の知人に報知 関連リンクもいくつか更新
・4/10「今日元治1」◆5/18【坂】横浜鎖港:慶喜の内命により、幕府に決行を促すため、在京水戸家老鈴木重義、山口徳之進ら東下
・4/8「今日元治1」◆5/14【坂】勝海舟、軍艦奉行に任命される ◆5/16(6.19)【坂】将軍、大坂出港。海路江戸へ◆5/17(6.20)【外国】横浜鎖港交渉使節、フランス政府とパリ約定を調印(キンシャン号砲撃賠償、下関通航、関税軽減)
・4/7「今日元治1」◆5/12【京】帥宮(有栖川宮熾仁)、慶喜側近・原市之進に中川宮の影響力浸透を語る/西郷隆盛(吉之助)、在国の大久保利通(一蔵)に悪化する京都の事情を報じる ◆5/13【京】横浜鎖港:原市之進、江戸藩邸の同志に書を送り、将軍帰府前の鎖港断行の不首尾、板倉老中の排斥急務との慶喜の言などを知らせる
・4/7「今日元治1」◆5/9【坂】水戸藩、慶喜に将軍帰府前の鎖港断行を入説。慶喜、老中板倉勝静の排斥が急務と述べる追加修正。関連リンク更新。
・4/6「今日元治1」◆5/8【京】朝廷、幕府への庶政委任を諸藩に通達◆5/9(6.12)【京】慶喜、摂海巡視のため下坂。/慶喜、水戸藩士に鎖港断行には老中板倉勝静の排斥が急務と述べる/朝廷、有栖川宮父子、九条道孝、鷹司輔政に国事御用掛を命じる
・4/5「今日元治1」◆5/29【京】薩摩藩家老小松帯刀、国許に情勢を報せる【長州東上】進発決定の長州藩、家老国司信濃に上京を命じる

2011
・/5/5「守護職事件」「2-1 容保の京都守護職就任と上京延引3-1 容保の着任と浪士対策の転換」大幅に再整理
・5/5「今日文久2」◆12/5(1.24)【江】攘夷奉勅:幕府、攘夷を奉答・親兵設置は拒否(に(おさらい:攘夷奉勅vs開国上奏を追加
・4/4「今日元治1」◆5/12(6.15)【京】西郷隆盛(吉之助)、在国の大久保利通(一蔵)に悪化する京都の事情を報じる
・1/21「幕末長州藩」「主要事件2文久3(1863に、砲術教授中島名左衛紋暗殺、長州訊問使中根一之丞暗殺、薩摩船砲撃事件(長崎丸事件、加徳丸事件)追加
・1/20「幕末長州藩」「主要事件2」文久2〜3追加修正、元治1(禁門の変・四国連合艦隊下関砲撃事件まで)Up(関連リンクもいくつか更新)
・1/15「今日元治1」◆5/7(6.10)【京】将軍退京。大坂城入城
・1/14幕末豆知識12「国事御用掛、国事参政・寄人(当初)リスト」■「覚書9「朝廷参豫関連会合一覧(文久3年11月〜元治1年4月)
・1/13「開国開城」「27慶喜の禁裏守衛総督就任と庶政(大政)委任の再確認」、幕末豆知識11「老中(文久2〜慶応4年)たちの在職期間
・1/7 「開国開城」「25:参豫会議の誕生・将軍再上洛と公武合体体制の成立」追加修正「26:参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」up(その他関連リンクいくつか更新)
***
<2010>
・12/19「今日元治1」◆5/2(6.5)【京】将軍暇乞の参内。孝明天皇袖渡しの宸翰を与える。朝廷、慶喜に鎖港決行・滞京を、政事総裁職松平直克に水戸藩主徳川慶篤と協力しての横浜鎖港尽力、老中稲葉正邦・水野忠精に滞京・守衛を命じる
・12/13「今日元治1」◆4/28(.6.2) 水戸藩主徳川慶篤の使者・家老岡部忠蔵、禁裏守衛総督一橋慶喜に横浜鎖港断行を説く  ◆4/29(.6.3)【京】将軍参内。4月20日の勅書に奉答。禁裏守衛総督慶喜&幕閣、朝廷尊奉18か条を奉承。/将軍東帰の許可&鎖港攘夷・水戸藩主へ諸事相談の勅命/川越藩家老山田太郎左衛門、大難を前に親藩の情義から止むを得ず鎖港を引き受けたと越前藩用人中根雪江に話す
・12/12「今日元治1◆元治元年4/27(1864.6.1)【京】横浜鎖港:三港閉鎖論で動揺の朝議、横浜一港閉鎖で決定。水戸・川越藩の鎖港担当が決まる。/水戸藩家老岡部忠蔵、横浜鎖港断行を入説に着京。
・12/11「今日元治1」◆4/25(5.30)に【京】横浜鎖港:朝廷内の三港閉鎖論について、一橋家臣黒川嘉兵衛、中川宮を訪ね、庶政委任による幕府の職権断行か軍職返上のいずれしかないと迫る  を追加
・12/11「今日元治1◆4/24(5.29)【京】春嶽、中川宮・近衛前関白・慶喜らに書を送る/越前藩中根雪江、常陸宮に対し、外国対策から「事の破れ」を惹起するだろうと述べる。常陸宮、中根に佐久間象山から外国事情をきいたと話す/幕府、市中警備徹底の町触れを出す ◆4/25(5.30)【京】前関白近衛忠煕及内大臣近衛忠房、国事用掛を辞退。 ◆4/26(5.31)【京】佐久間象山、中根雪絵に、開国説等の時勢を談じる【江】幕府、京都見廻役新設を通達。 
・12/8「今日元治1」◆4/23(5.28)【京】一橋家臣平岡円四郎、越前藩中根雪江に将軍東帰の見込みを話す。 中根から市中潜伏の「暴人」決起に対する警備体制を問われると茫然として老中に言上すると述べる
・11/28「今日元治1」◆4/21(5.26)【京】中川宮、国事扶助を辞す ◆4/22(5.27【京】容保、守護職の請書提出/将軍家茂、直書を諸有司に見せて、物価低落の方策を立てさせる)
・10/22「今日元治1」◆4/20(5.25) 【京】幕府への庶政委任(政令帰一)の勅書及び重要事項四条(横浜鎖港・海岸防御・長州処分・物価安定)に関する勅書(別紙)(「無謀之攘夷は不可)。同時に、朝廷尊奉18か条の奏聞への回答も【京】幕府、容保の守護職辞表を再度却下
・10/21「今日元治1」◆4/18(5.23)【京】容保、守護職辞表提出(2)【京】旧参豫帰国:島津久光退京 ◆4/19(5.24)【京】幕府、禁裏守衛総督・守護職・所司代に市中巡邏・警衛を命じる。/旧参豫帰国:松平春嶽退京【坂】長州藩士木島又兵衛・桂小五郎・寺島忠三郎・久坂玄瑞ら大坂藩邸に参集。世子毛利定広の率兵上京を議す
・10/21「今日元治1」◆4/17(5.22)【京】庶政委任:二条関白・中川宮、春嶽に対し、朝廷は幕府に庶政委任の見込みだと語る/一橋家臣平岡円四郎、越前藩士中根雪江に対し、鎖港交渉不首尾の場合、朝廷がなお攘夷を迫れば軍職を返上すべきだと語る【江】水戸藩主徳川慶篤、慶喜・二条関白に横浜鎖港(休港)の意見書を認め、家老岡部忠蔵に上京・周旋を命じる。幕府、京都に通報して水戸藩の「策」に備えさせる
・10/19「今日元治1」◆4/16(5.21)【京】庶政委任:慶喜ら連署して尊奉18か条(庶政委任、旗本による九門警備を含む)を奏聞(&朝廷の回答)
・10/14「今日元治1」◆4/14(5.19)【京】幕府、容保の守護職辞表却下。病が快癒すれば出勤するよう命じる/将軍、水戸藩主徳川慶篤弟(余八麿)を会津藩主松平容保の継嗣とする仲介を前尾張藩主徳川慶勝に求める ◆4/15(5.20)【京】 将軍、容保に病気見舞いの使者を派遣して親書を与える。・10/13↓少々追加修正
・10/12「今日元治1」◆4/9(5.14)【京】朝廷、令して、非常時の参内の仕方、及び御所九門・六門の警備担当を定める(&文久3年5月との比較) に追加修正
・10/11「今日元治1◆4/12(5.17)【京】備前藩主池田茂政退京。/総督・指揮:佐久間象山、慶喜に謁し、建策・/【江】留守老中、京への書にて、水戸藩の鎖港断行の建議を採用せぬよう重ねて要請。◆4/13(5.18)【京】旧参豫の帰国:春嶽、慶喜に対し、自分及び久光の退京には別に仔細なしと説明  ◆テーマ別元治1年をちょっと整理
・10/10「今日元治1」◆4/11(5.16)【京】所司代稲葉正邦の老中任命&桑名藩主松平定敬の所司代任命/会津藩家老横山・神保、老中水野に守護職辞表提出(2) /伊達宗城退京。/春嶽ら参内。官位昇進/・10/10「今日元治1」◆4/10(5.15) 【京】参豫諸侯の帰国:春嶽・宗城ら、将軍に暇を告げる/宗城、従四位。【京】近衛邸に春嶽・宗城・久光ら参集。議奏の急速鎖港主張、長州藩の藩主父子の上京願・七卿帰京復職要請を議す【江】留守老中、在京老中に書を送り、水戸藩の上奏を採用せぬよう要請/
・10/9「今日元治1」◆4/9(5.14)【京】長使入京問題:慶喜、長州藩主父子に書を送り、朝命に従い使者を東上させるよう勧告【京】朝廷、令して、非常時の参内の仕方、及び御所九門・六門の警備担当を定める(&文久3年5月との比較)
・10/9「今日元治1」◆4/8(5.13)【京】朝廷、春嶽・久光、池田茂政、長岡良之助の帰国を許可/水戸藩梅沢孫太郎・原市之進、慶喜の用人見習に【江】留守老中、天狗党筑波挙兵を京都に報告。水戸藩主徳川慶篤、武田耕雲斎と登城。横浜鎖港断行を建言。
・10/8「今日元治1」◆4/7(5.12)【京】春嶽に守護職解任&容保に京都守護職復職の幕命/容保、守護職辞表提出(1)/【京】会津藩士広沢安任、宗城に謁し、庶政委任の要を説き、建議を請う/水戸藩士勝野大助、越前藩中根雪江に攘夷を説く/所司代稲葉正邦、山陵奉行は幕府の指揮を受けさせたいと武家伝奏に伝える
・10/7「今日元治1」◆4/4(5.9)【京】春嶽の守護職辞任&容保の再任:久光、春嶽の辞任許容+容保の任命(軍事総裁職罷免)の情報得る ◆4/5(5.10)【京】春嶽の守護職辞任:慶喜、春嶽に辞任許容の朝議を報せる/諸侯帰国:宗城・久光・長岡良之助、朝廷に帰国許可を内請 ◆4/6(5.11) 【京】春嶽の辞職:慶喜、春嶽に守護職解免・非常時上京の沙汰書案提示&辞職後の日々登城要請【京】諸侯帰国:春嶽、慶喜に宗城の官位昇進を提案
・10/6「今日元治1」◆4/3(5.8)【京】 総督・指揮:慶喜、水戸藩執政武田耕雲斎に上京助力を依頼/佐久間象山を海陸御備向掛手付御雇に登用【京】春嶽の守護職辞任:中根雪江、朝廷有力者をめぐり、速やかな解任を請う/慶喜、書を以て春嶽に辞職後の日々登城を要請
・10/5「今日元治1」◆4/1(4.5.6)【京】春嶽の守護職辞任:慶喜に書面を以て速やかな辞職の周旋を求める ◆4/2(5.7)【京】諸侯帰国:春嶽、中川宮に諸侯帰国の際は勅諭遵奉を諭すよう上言/【京】諸侯帰国:宗城・久光・長良、5日に二条関白邸に同道・帰国願いを決定
・10/4「今日元治1」◆3/29(5.4)【京】春嶽の守護職辞任:藩士中根雪江、酒井十之丞を議奏正親町三条実愛に遣わし、辞職許容を入説 ◆3/30(5.5)【京】 【京】総督・指揮:慶喜、旧参与諸侯(春嶽・宗城・久光)に呼びかけ、越前藩邸で摂海砲台築造の諸侯負担について議す【京】春嶽の守護職辞任:宗城、慶喜に対し、春嶽の辞職後は非常時上京が適切と主張。慶喜、同意
・10/3「今日元治1」◆3/28(5.3)【京】春嶽の守護職辞任:中川宮、春嶽の留任を断念。代わりに滞京を強く求める。【京】容保の守護職再任:会津藩、幕府に対し、容保の病を口実に守護職再任辞退の願書提出(実は慶喜の総督就任にに対する不安)/
・10/1「今日元治1」◆3/27(5.2)【京】幕吏、慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮の沙汰に大不平/春嶽の守護職辞任:慶喜、春嶽に辞職再考を促すが、春嶽は「覆水盆に復らず」と返答/【天狗党】筑波挙兵/&容保の守護職再任・春嶽の辞職問題関連の記事に追加修正
・9/29「今日元治1」◆3/26(1864.5.1):【京】春嶽の守護職辞任:越前藩、中川宮・近衛前関白らに辞職許容を入説する/朝議、中川宮・山階宮・近衛前関白の主張で会・越両藩の守護職を議決
・9/28「今日元治1」◆3/22(4.27に【京】中川宮、慶喜への懸念から春嶽留任を希望。会越両藩に守護職任命検討追加。他、加筆修正。◆3/23に【京】朝廷、会越両藩に守護職を命ずることを決める(+朝廷の方針転換)を追加
・9/23「今日元治1」◆3/22,◆3/23 ◆3/24に追加修正 ◆3/25(4.30)【京】朝命により、慶喜の後見職解任、禁裏守衛総督・摂海防御指揮職就任
・9/21「今日元治1」◆3/22(4.27)【京】春嶽の守護職辞任:川越藩、越前藩に二条関白の春嶽守護職解免反対を伝え、官家に入説を勧める/慶喜の総督・指揮就任:宗城、近衛家で中川宮・久光と集会。慶喜の任命熟慮を入説/参豫の幕政参加:久光、御用部屋辞退を小松帯刀を以て慶喜に再度申し出 ◆3/23(4.28)【京】春嶽の守護職辞任:越藩中根・酒井、二条関白に春嶽の守護職辞職を主張。一橋家平岡、春嶽の辞職猶予を求める/参豫の幕政参加:再度の御用部屋辞退/1幕府、守護職・町奉行・新選組に市中守衛を命じ、諸藩の警衛を廃止する/ ◆3/24(4.29)【京】慶喜禁裏守衛総督・摂海防御指揮職、守護職を会津・越前両藩にとの沙汰
・7/5「今日元治1◆3/21(4.26)【京】春嶽の守護職辞任:春嶽、守護職辞表を幕府に提出。/二条関白、慶喜・に春嶽解免不可の沙汰
・7/4「今日元治1」◆3/20(4.25)【京】慶喜の総督・指揮就任:宗城、山階宮に慶喜の総督内願の「深意」について注意喚起/【京】参豫の幕政参加:慶喜、宗城・久光の御用部屋入り辞退却下を伝える/
・7/3「今日元治1」慶喜の禁裏守衛総督・摂海防御指揮に関する動きを追加 ◆3/12(4.17)【京】中川宮、春嶽に幕府から慶喜の守衛総督就任内願があったことを伝える ◆3/16【京】久光、宗城に慶喜の総督内願・諸侯退京建白を伝える。両人「姦計」と歎く  ◆3/18【京】宗城、久光に総督内願に関する慶喜への疑惑(謀計説)を伝え、尽力周旋すべきか相談/春嶽、宗城に慶喜の総督内願、総督就任後の将軍東帰等について報じる
・6/28 ↓に追加修正。
・6/27「今日元治1」◆3/19(4.24)【京】春嶽の守護職辞任:所司代、会津の警衛箇所の越藩への引渡し見合わせを通達/会津藩、容保の守護職再任の可能性を江戸に報知
・6/26「今日元治1」◆3/18(4.23)【京】春嶽の守護職辞任:越藩中根・酒井、平岡を介して慶喜に辞表内願書提出。二条関白・中川宮・宗城・久光にも次第を報告/
・6/25「今日元治1」◆3/17(4.22)【京】越前藩、春嶽の守護職辞表内願書を総裁職に提出/川越藩山田、幕閣・慶喜の越への猜疑を語る/【京】参豫の幕政参加:久光・宗城、御用部屋入り辞退を慶喜に申し出る/【京】、1月27日の将軍への宸翰は薩藩高崎猪太郎の草案であり、高崎を斬首との落書
・6/6「今日元治1」◆3/15(4.20)【京】春嶽の守護職就任問題:中根雪江を遣わし、守護職辞退を慶喜に申し出る(平岡・黒川応対)/中根、中川宮にも伝達。中川宮、薩越退京後の政情(水・因・備の勢力拡大)を危惧/
・5/1「今日元治1」◆3/12(4.17)【京】二条城会議/春嶽、宗城に書を送り、幕府の越・薩・宇の忌避及び水・因の入説の影響について相談 ◆3/13(4.18)【京】参豫会議解体:春嶽・宗城の参豫辞任が許可される。/春嶽の守護職就任問題:越前藩、春嶽の守護職辞任・帰国を内決する。
◆3/14(4.19)【京】参豫会議解体:容保・久光の参豫辞任が許可される/
・4/25「今日元治1」◆3/9(4.14)【京】参豫解体:慶喜、朝廷に参豫諸侯の朝議参豫辞任を願いでる。◆3/10(4.15)【京】筑前藩世子、長州は容易に悔悟しない様子だと宗城に伝える◆3/11(4.16)【京】春嶽、8日の藩議に基づき、慶喜に幕政一新を説く。慶喜、「冷淡」な対応。
・4/24「今日元治1◆3/6(4.11)【京】参豫解体:久光、中川宮・近衛前関白に小松帯刀を遣わし、痛みを理由に参豫辞退・帰国を内請【江】幕府、在府諸侯・有司代表に横浜鎖港に関する勅旨・将軍請書を示す。/◆3/7(4.12)【京】将軍参内。叙任を謝す/【長州】藩主毛利敬親、藩士有福半右衛門に上京を命じる。家老国司信濃・遊撃軍らの上京を京都留守居に知らせる
・4/22「今日元治1」◆3/4(4.9)【京】朝廷参豫会議:長使入京可否は万一の事態に関するの幕府の「保証」次第(慶喜・容保・久光欠席)/慶喜の欠席に一同不快感8&入京問題おさらい・宗城の失望)【京】保科正之に従三位追贈 ◆3/5(4.10)【京】幕府,、長使入京不可決定。朝議、長州藩末家大坂召喚を再決定(参豫は春嶽以外欠席)。長州藩に通達
・4/21「今日元治1」◆3/2(4.7)【京】朝廷参豫会議:長使入京問題に結論が出ず。天皇の裁断は大坂召命。朝廷、各諸侯に意見書提出を命じる/升屋宅に将軍・中川宮・久光・春嶽批判の張り紙/◆3/3(4.8)【京】前尾張藩主徳川慶勝、参豫任命・固辞/新選組、再び容保(軍事総裁職)指揮下へとの幕命
・4/20「今日元治1」◆2/29(4.5)【京】長使入京問題:朝廷、長州末家・家老等の大坂召命一時見合わせ決定(久光嘆息) ◆3/1(4.6)【京】松平春嶽、朝廷尊奉と政体一新を幕府に建議/将軍、容保に軍用金2万両下賜/会津藩士広沢富次郎、長使入京不可を越前藩士中根雪江に論ず。
・4/19「今日元治1」◆2/27(4.3)【京】長使入京問題:筑前藩世子、長州藩末家・家老ら3名の京都召命を建議/長州処分:因幡藩主、攘夷の速やかな実行・長州処分寛大を幕府に建議/備前藩主、勅使の長州派遣・三条実美らの京都召還・寛典等を建白/京都町奉行小栗政寧、洛内外の「暴徒」捕縛を命令 ◆2/28(4.4)【京】長使入京問題:朝議動揺。参豫諸侯に意見具申を要請/摂海防御:幕府、監察徳永主税、会藩神保修理・秋月悌次郎・小室金吾に摂海巡視を命令/参豫会議解体:前土佐藩主山内容堂帰国の途に
・4/17「今日元治1」◆2/25(4.1)【京】長州処分:朝廷、訊問のため「御用」を理由に長州藩末家・家老を大坂へ召命。幕府も通達/【京】一橋家臣黒川慶兵衛、慶喜は薩摩を「敢えて疑」うわけではないと述べ、春嶽も交えた薩摩・一橋の会合を提案/朝廷、山内容堂に帰国の許可 ◆2/26(4.2)【京】幕府、在京諸侯を二条城に召し、国是を諮問/前尾張藩主徳川慶勝入京/ 【坂】長州義勇隊士に焼き打ちされた薩摩藩船船主大谷仲之進が梟首される。傍らに義勇隊水井精一・山本誠一郎の割腹した遺体(久坂玄瑞らの強要)
・4/15「今日元治1」 ◆2/21(3.28)【京】参豫会議解体:宗城、慶喜を訪ねて「憤励」を求める。 ◆2/22(3.29)【京】会津藩邸会議:長州藩末家の召喚手続きを議論/【京】長州処分:長岡兄弟(肥後藩主弟)、朝旨をもって藩主を説諭し、幕府が非違を糾弾するよう建議/家茂、島津久光父子の多年の功を賞し、刀等を下賜  ◆2/23(3.30)【京】長州処分:筑前藩世子、穏やかな処分を建議)/三条大橋に幕府・・後見職を批判・三港焼き払いの主張の張り紙 ◆2/24(3.31)【京】朝廷参豫会議:長州処分:朝廷による長州藩末家・家老の大坂召命を決定/参豫会議解体:春嶽の意を受けた中根雪江・高崎猪、慶喜と久光の仲の調停を相談/備前藩主池田茂政入京/【阪】横浜貿易商暗殺 
・4/14「今日文久4」◆2/17(3.24)【京】幕府、横浜鎖港の新たな請書提出を18日に延期/守護職更迭(6)幕府、軍事総裁職に陸海軍奉行・後部所奉行・三番等以下軍職を統括させる/ ◆2/18(3.25)【京】横浜鎖港:幕府、請書提出&春・宗・久、同意の意見書提出/【江】守護職更迭:老中、連署して容保の軍事総裁職転任に反対 ◆2/19(3.26)【京】春嶽、老中に国是一定・在京諸侯の速やかな帰国を建言 ◆元治元年2/20(3.27)元治と改元。【京】幕府、在京諸侯に1月27日の宸翰の請書の趣旨を示し、意見を求める
・4/13「今日文久4」◆2/16(3.23)【京】幕府、参豫諸侯の御用部屋入りを命じる/参豫会議解体:)諸侯(慶喜・久光・春嶽・宗城)、中川宮を訪問、慶喜激論し、「薩摩の奸計、三人は天下の大愚物」と暴言。(参豫会議は急速に解体へ)/守護職更迭:容保、軍事総裁職を請ける&孝明天皇、容保に再び宸翰(任務後の守護職復帰要請/天誅組安積五郎ら19名斬首)/
・4/12「今日文久4」◆2/15(3.22)【京】宸翰請書:幕府、1月27日の宸翰及び請書を布告/春嶽を守護職に任命・春嶽、参豫の御用部屋入りによる「政体一新」を求める/宸翰請書・朝廷参豫会議(御前):朝廷、請書に疑念を示し、急速な横浜鎖港を命じる。慶喜と開国説の春嶽・宗城・久光の意見対立(容保・容堂欠席)。・4/11「今日文久4」◆2/13(3.20)【京】朝廷参豫会議(御前会議):長州処分の方針について下問に下問・回答の概容及びコメント追加。◆2/14(3.21)京】家茂参内、宸翰(1月27日)の請書を差し出す(&横浜鎖港に関する朝廷の疑念・幕府の裏事情)【京】家茂、参豫諸侯の幕政参加を中川宮に約束
・4/9「今日文久4」↓の容保の御用部屋入り」に容保/会津藩の幕政参加を整理
・4/8「今日文久4」◆2/13(3.20)【京】朝廷参豫会議(御前会議):長州処分について下問(慶喜・容保・容堂欠席)/春嶽、参豫諸侯の幕政参加(老中の上)・人材登用の意見書を総裁職経由で将軍に提出/幕府、容保に日々登営・御用部屋入りを命じる/【坂】勝海舟、出帆
・4/7「今日文久4」◆2/12(3.19)【京】朝廷、容保に参議推任の宣下・容保固辞/御所九門警備:会津藩の唐・蛤門警備を免じ、堺町門に変更/長州藩士宍戸九郎兵衛、二条関白に謁す
・4/7「今日文久4」◆2/11(3.18)【京】幕府、征長出陣部署を決定し、諸藩に長州処分の内意通達/守護職更迭(2)容保の守護職を更迭し、陸軍総裁職と征長軍副将に任命/越前藩、幕府に参豫の幕政参加(老中の上に置く)建議を決定/参豫諸侯4名連署して慶喜に朝旨(二度の宸翰)に基づく天下の耳目の一新を建言/長州藩士宍戸九郎兵衛、密かに入京。
・4/6「今日文久4」◆2/1(3.8)【京】慶喜、1月27日の宸翰は「開港の意味」が含まれるとして布告延期を提案に「慶喜の宸翰への違和感」を追加。◆2/2(3.9)【京】二条城会議:久光鎖港不可を論ずるに久光覚書から久光と老中のやりとりを追加。また、『昔夢会筆記』から幕府の裏事情を追加。
・4/5「テーマ別元治元年」更新
・3/31「今日文久4」◆2/10(3.17)【京】守護職更迭(2):幕府、容保の大老任命を止め、陸軍総裁職任命を決定/将軍、会津藩主松平容保に五万石加増の沙汰/山内容堂、朝廷に帰藩を請う
・3/30「今日文久4」◆2/9(3.16)【京】守護職更迭(1)幕議、容保の加増、征長副将、守護職更迭と大老転任を決定/老中板倉勝静に上京命令/京都町奉行永井尚志、大目付に
・3/29「今日文久4」◆2/8(3.15)【京】二条城会議(容保欠席)/長州処分:参豫諸侯、総裁職・老中と長州処分を議す/近衛前関白らとも議し、(1)尋問のため、長州支藩及び家老の大坂召喚、(2)三条実美らの京都還送、(3)違背すれば征討を決定/【京】孝明天皇、容保に極秘の宸翰を下付。その「誠忠」を称え、「密事」の周旋を依頼する。
・3/27「今日文久4」◆2/7(3.14)【京】家茂、泉涌寺御陵を参拝/老中水野忠精、春嶽邸訪問。宗城も会合し、時事を協議。
・3/26「今日文久4」◆2/6(3.13)【京】勝海舟、春嶽に幕府要路間の猜疑を廃して英断することを求める書を出す/朝廷、三条実美らの建白書の受け取り・使者退京を決定/【長】長州藩、武器を他藩に売ることを禁じる
・3/25「今日文久4」◆2/5(3.12) 【京】軍艦奉行並勝海舟、摂海防御及び神戸海軍操練所の強化を委任される/二条城会議(容保・容堂欠席):久光、宸翰の「有のまま」の布告を主張/仏艦隊下関襲撃の噂が京都に届き、勝海舟の長崎派遣を決定。
・3/24「今日文久4」◆2/4(3.11)【京】久光、横浜鎖港交渉使節帰国までの鎖港を是とすることを春嶽に相談。春嶽同意/容堂、春嶽に1月27日の宸翰布告反対の意を伝える/幕府、布告の延期を決定。
・3/24「今日文久4」◆2/3(3.10)【京】一橋家家士平岡円四郎、慶喜と老中の仲について、(1)宸翰の趣旨、(2)横浜鎖港、(3)長州処分について同論であり、懸念はないと越前藩士中根雪江らに述べる。【長】長州東上:藩主敬親父子、家老宍戸備前・福原越後とともに三条実美訪問。
・3/23「今日文久4」◆2/2(3.9)【京】二条城会議:参豫諸侯(容堂・容保欠席)、慶喜・直克・老中と会談。宸翰布告決定。横浜鎖港・長州処分についても議す。久光鎖港不可を論ずる/新選組近藤勇、容保に呼び出される
・3/20「今日文久4」◆◇2/1(3.8)【京】 【京】慶喜、会津藩賞揚及び容堂抜きの参豫集会に同意。/幕議は横浜鎖港攘夷、長州藩主父子の隠居・違背すれば征討、参豫の御用部屋入り不可、/慶喜、1月27日の宸翰は「開港の意味」が含まれるとして布告延期を提案/会津藩・新選組批判の高札【長】長州東上:三条実美、土方久元・清岡半四郎と東上を謀議
・3/17「今日文久4」◆1/29(3.7)【京】山陵補修の功により、将軍家茂に従一位推叙の宣下/宇都宮藩主戸田忠恕に従四位下・山陵奉行戸田忠至を大名格とする/春嶽、慶喜に容保への褒賞(朝廷参議・天皇からの書付、加増)周旋及び容堂を外して他の参豫諸侯と会合することを求める
・3/4「今日文久4」◆1/28(3.6)【京】【京】二条城会議:参与諸侯(春嶽・容堂・宗城・久光)、老中と長州処分の方法論を議す。(容堂と久光対立)【京】春嶽、開国鎖国の議論はせず、必戦の備えを国是とするよう老中に意見する。老中の参与廃止論に対し、参与の幕政参加を提案。/【長】高杉晋作、脱藩
・3/2「今日文久4」◆1/27(3.5)【京】将軍家茂、在京諸侯42名の面前で、宸翰(詔書)を受取る (無謀の攘夷及び討幕を企てた三条実実らと長州藩の「暴臣」は必罰だがその責任は天皇にあること;攘夷のために旧典を改め、冗費を省き、幕府・諸藩の武備充実すること;公武一和によって天下一新をすること)(草稿は薩摩藩)。天皇、総裁職直克・老中に参与諸侯との協力を諭す/山陵補修の功により、将軍家茂に位階昇進(従一位宣下)の内旨
・2/28「今日文久4」◆1/26(3.4)【京】 【京】春嶽、明27日の将軍位階昇進について仔細を確認するよう慶喜に要請。/越前藩中根雪江、慶喜と直克・老中らとの隔意について一橋家黒川嘉兵衛と内談【京】阿波藩、市中巡邏免除を請う/【江】横浜鎖港交渉()老中板倉勝静・井上正直・牧野忠恭、米国公使に横浜鎖港の理由を弁明・下関償金猶予を求める
・2/27「今日文久4」◆1/25(3.3)【京】二条城会議(2)幕閣、参与諸侯の長州征討案に同意【京】将軍家茂、守護職と総裁職に昨秋以来の労をねぎらい、金品を与える【京】近衛前関白、27日の将軍参内時の「突然」の位階昇進を慶喜らに伝える【京】近衛前関白、家茂隠居・慶喜の将軍宣下の風説を否定
・1/10「今日文久4」◆1/24(3.2)【京】松平春嶽、御用部屋入り/二条城会議(1)参与諸侯(春嶽・容堂・久光)、総裁職松平直克・老中水野忠精と時事を論じる(慶喜欠席)容堂激して退席。【京】老中水野・有馬,春嶽・宗城の仲介で中川宮邸を訪問。
・1/3「今日文久4」◆1/23(1864.3.1)【京】朝廷参与会議(5)議事なし。21日の宸翰は内諭/春嶽、慶喜と幕府要路の疎隔を憂い、中根雪江に融和を周旋させる【京】武家伝奏を1名追加し、坊城俊克就任加筆修正
・1/2「今日文久4」◆1/9(2.16)【京】参与(7)参与諸侯会合:容保の征長副将、春嶽の守護職、久光の幕議参画等を議定/慶喜の後見職辞任+禁裏守衛総督就任が議論される/前勧修寺門主の伏見宮家復帰・還俗を許す勅、大原重徳を許す特旨 加筆修正
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2009
・4/4「今日文久4」1/23(1864.3.1)【京】朝廷参与会議(5)議事なし。21日の宸翰は内諭/春嶽、慶喜と幕府要路の疎隔を憂い、中根雪江に融和を周旋させる【京】武家伝奏を1名追加し、坊城俊克就任/
・4/3「今日文久4」◆1/22(2.29)【京】将軍再上洛(6)将軍、在京諸侯・有司に右大臣推任を告げる/参与(13)将軍、朝議参与春嶽・宗城・久光に宸翰を示し、協力依頼/幕府内に、会・越・宇・土・薩摩に対する嫌疑が起こる。/長州東上(2)【長】三条実美、水野正名・土方久元・真木和泉・宮部鼎蔵と議する
・4/2「今日文久4」◆1/21(2.28)【京】将軍再上洛(5)将軍家茂参内。宸翰の勅書が下る最近の情勢は天皇に非があること、天皇と家茂との親睦が天下挽回に重要であること(朕汝を愛すること如子、汝朕を親むこと父の如くせよ)、無謀の攘夷は好まず、幕府で議論した結果に基づき一定不抜の国是を定めたいこと、容保・春嶽・宗城・久光との協力を望むこと)(実は草稿は薩摩藩)/長州東上(1)【京】桂小五郎、藩の要路に対し、久坂玄瑞及び奇兵隊士の上京不可の書を差し出す
・4/1 「今日文久4」◆1/20(2.27)【京】将軍再上洛(4)将軍に右大臣宣下の内旨
・1/5 「今日文久4」◆1/19(2.26)【京】参与(12)久光、春嶽・宗城と共に二条城にのぼり、家茂と初めて面会
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2008
・12/31 ↓に<おさらい(服制復旧(文久2年幕政改革反故>と<ヒロの憶測:復旧の裏事情>追加
・12/28「今日」文久4◆1/18(2.25) 【京】服制復旧:幕府、復旧を停止/将軍再上洛(3)春嶽・宗城・容堂と阿波藩主蜂須賀斉裕、二条城に登城。家茂に公武一和について上言/慶喜、御所車寄せでの昇降を許される/家茂、容保に病気見舞の使者を派遣
・12/27「今日」文久4.1.17に服制復旧:総裁職松平直克、容保に慶喜への取り成しを頼むを追加
・1/20「文久4」◆1/17(2.24)【京】参与(10)第4回朝廷参与会議・公武一和のやり方等下問/島津久光参内し、叙任を謝す/紀州藩主徳川茂承入京/
・1/18「文久4」◆1/16(2.23)【京】将軍再上洛(2)孝明天皇、勅使を二条城に派遣・板輿下賜/幕府、春嶽に将軍の諮問に応えるため随時登城を命じる
・1/7「文久4」◆1/15(2.22)【京】将軍再上洛(1)将軍家茂二度目の入京、二条城へ/家茂、慶喜に「万事依頼」と述べ、老中の慶喜に関する「従来の嫌疑」も「氷解」/長州処分:参与の容堂・宗城・久光、政令帰一を急務とし、長州処分は幕府に委任するようにとの建議をすることを合意/桑名藩主松平定敬入京/

2007年の主な更新
・12/29「文久4」 ◆1/14(2.21)【京】将軍再上洛へ(28)将軍家茂大坂を出立・伏見入城(付「剛」から「鼻公」へ)
・12/28「文久4」◆1/13(2.20)【京】参与(9)第3回朝廷参与会議。新たな議事なし/島津久光(薩摩)、朝議参与を命ぜられる。従四位下に叙され、左近衛権少将に任ぜられる
・12/25「文久4」◆1/12(2.19)【京】将軍再上洛へ(27)関白二条斉敬、総裁職・守護職・老中・参与諸侯らに対し、家茂を補佐して公武協和に尽力せよと命ずる
・12/24「文久4」◆1/11(2.18)【京】参与(8)/長州処分:参与諸侯ら、征長戦参加大名を議定。/第2回朝廷参与会議/政事総裁職松平直克・老中水野忠精入京/
・12/21「テーマ別幕末日誌」のトップから各項目に直接飛べるようリンクを張りました。

・12/19「文久4」1/9(2.16)【京】参与(7)参与諸侯会合:容保の征長副将、春嶽の守護職、久光の幕政参画等を議定、慶喜の禁裏守衛総督就任が議論される/【京】朝廷、前勧修寺門主の伏見宮家復帰・還俗を許す勅、大原重徳を許す特旨
・12/18「文久4」1/8(2.15)【坂】将軍再上洛へ(26)将軍家茂、大坂上陸/【京】参与(6)第1回朝廷参与会議:春嶽・宗城・容保参内-前観修寺門主の親王宣下、久光の官位問題について下問(口答)・12/17「文久4」 1/7(2.14)【京】参与の動き(5)容堂、参与辞任が聞き入れられず/久光、朝廷に対して、将軍家茂に「至誠の綸言」と天皇の非を認める「宸翰」を下すことを建言。宸翰草稿も提出(実際に下された宸翰とほぼ同文)←薩摩藩の根回しだったのです!
・12/16「文久4」1/5(2.12)【京】参与(4)参与諸侯(慶喜・容保・春嶽・宗城)、朝議のため参内。書付の下問のみ。
・12/15「文久4」1/4(2.11)【京】在京諸侯参内/参与(3)参与諸侯(慶喜・容保・春嶽・宗城)、前勧修寺門主(→山科宮)の還俗を建言【長】直目付桂小五郎の職を免じ、京阪に潜伏させる■「今日」の始点の月(文久2年4月)の各記事に「前へ」「次へ」と人物アイコンを追加(こちら)(順次つけていきます)・12/14「文久4」1/3(2.10) 【京】参与(2)島津久光、伊達宗城に山内容堂の辞意について高崎猪太郎に対応させたいと提案する
・12/12文久4.1.2に 久光、横浜鎖港・同使節中止・武備充実を主張。幕府の方針を[姑息」と批判追加
・12/11「今日」再開。文久4.1.2(2.9)【京】参与(1)後見職慶喜宿舎にて2日間隔の参内を内決/容堂、参与の辞意を春嶽に伝える・12/10 「今日」文久4年1月2日〜21日の項目UP(「今日」の再開準備です).◆文久3.12.30(2.7)【京】参与会議へ(19)慶喜・春嶽・容保・容堂・宗城、朝議参与に任命される追加修正
・12/9「豆知識」「幕末人物、主要事件時の年齢対比表」に若干追加 「開国開城」「25:政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」の朝廷・幕府主要人物に年齢追加。(他章にも随時追加予定)
・12/7 「志士詩歌」「外国人襲撃事件(1)」に東禅寺事件で戦死した有賀半弥の詩歌をUP(手持ちの詩歌集どれにも載っていませんでした。管理人が探していることを知った方が貴重な情報を寄せてくださいましたm(..)m)
・5/18 (衛士館ですが)鈴木家所蔵の赤報隊関連史料解読文UP(こちら)。ブラウザーの「戻る」で戻ってください。


2005年の主な更新
・7/14 文久2「6/23(7.19):【江】春嶽、幕政参与辞任の内願を老中脇坂に。大目付大久保一翁にも挨拶/久光、勅意が貫徹しないことを慙愧する書を春嶽に遣わす&中山中左衛門、薩摩藩は邪魔者排除・武力による助勢の準備があると明かす/越前藩、登城再開の「条理」を探る【京】関白、九条尚忠から近衛忠煕に。(←薩摩藩の周旋)」追加修正
・7/13文久2「6/18:【江】勅諚(6)勅使大原、三度目の登城。老中、春嶽の総裁職就任承諾。慶喜の登用は難色/春嶽辞任を決意し登城とりやめ/◆6/22【江】容保ら、春嶽の登城を促す
・7/12「豆知識」「幕末人物、主要事件時の年齢対比表」に若干追加・修正。文久2「6/16:【江】勅諚(4)島津久光、老中脇坂安宅に対して勅諚尊奉を遊説 「6/17(7.13):【江】勅諚(5)幕議・勅諚は薩摩の私意から出るとみなし、慶喜登用を決さず/島津久光の薩摩藩主就任否決の幕議」に追加修正
・7/11文久2「6/13(7.9):【江】勅諚(3)勅使大原重徳、松平容保・松平春嶽・老中らと会し、回答催促。」に追加修正。「6/14(7.10):【江】勅諚(4)越前藩、春嶽の進退を評議(慶喜への嫌疑、薩摩藩への疑念、会津藩は?)」」up
・7/7テーマ別文久2「薩&越」 「6/9(7.5) 」に「久光の使者伊地知、越藩に重ねて助力を求める」追加
7/6「テーマ別文久2」「小楠」「7/8(8.3)【江】小楠・中根雪江、大久保一翁(忠寛)訪問。一翁、小楠の三策に感服」up/「薩&越」 6/3【江】薩摩藩使者伊地知貞馨(堀小太郎)、春嶽に先代斉彬の遺言として勅使及び久光の国事周旋への助力と久光との面談を求める」に追加「6/4【江】老中、春嶽と久光の面会を承諾」up
7/5「テーマ別文久2」「小楠」「7/6(1862.8.1)」に「横井小楠、江戸到着」を追加。
6/14「志士詩歌:生野の乱」微修正&多田弥太郎の歌追加 6/12 「志士詩歌:生野の乱」up
4/20 「開国開城:政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」を3年ぶりに微修正。今後、参与会議にいたる動きを若干追加予定。我ながら3年前は越前藩の重要性をあまり認識していなかったことがよくわかりました^^;。禁門の政変のところの前にも、越前藩の挙藩上京計画を追加予定。
南米出張につき、更新はお休みm(..)m。
・2/13「今日」をお休みして時間ができたので、気になっていたサイトの整理整頓を開始。再整理のテーマは「お気楽」^^。(気づいたら箇所からちょこまかと修正)
◇文久3年末にたどりついたところで、かなりプレッシャーになっていた「今日」の更新はしばらくお休みm(..)m
・2/7「今日」文久3「12/30(2.7)【京】参与会議へ(19)慶喜・春嶽・容保・容堂・宗城、朝議参与に任命される
・2/5「今日」「12/28(2.5)【京】将軍再上洛(25)家茂、軍艦翔鶴丸で海路上京へ。/【京】参与会議へ(18)前土佐藩主山内容堂入京
・2/4「今日」「12/27(2.4)【江】将軍再上洛(24)将軍家茂江戸を出立。品川着/頼三樹三郎の墓碑建立を許す/【京】慶喜・春嶽、将軍長期滞在の必要性を確認
・2/3「今日」「12/24(1864.2.1)【京】参与会議へ(17)越前藩中根雪江(靱負)、一橋用人平岡円四郎と諸侯会議の運営方法を協議」12/25(2.2)【京】参与会議へ(18)二条城にて有力諸侯会議。朝廷参与について協議/横浜鎖港談判使節(4)前宇和島藩主伊達宗城、前越前藩主松平春嶽に使節派遣延期・諸侯会議で開国・鎖国決定を入説【京】越前藩主松平茂昭上京」「12/26(2.3)【京】中根雪江、慶喜訪問し、鎖港使節出発延期等を協議」
・2/4「今日」「12/27(2.4)【江】将軍再上洛(24)将軍家茂江戸を出立。品川着/頼三樹三郎の墓碑建立を許す/【京】慶喜・春嶽、将軍長期滞在の必要性を確認
・2/3「今日」「12/24(1864.2.1)【京】参与会議へ(17)越前藩中根雪江(靱負)、一橋用人平岡円四郎と諸侯会議の運営方法を協議」12/25(2.2)【京】参与会議へ(18)二条城にて有力諸侯会議。朝廷参与について協議/横浜鎖港談判使節(4)前宇和島藩主伊達宗城、前越前藩主松平春嶽に使節派遣延期・諸侯会議で開国・鎖国決定を入説【京】越前藩主松平茂昭上京」「12/26(2.3)【京】中根雪江、慶喜訪問し、鎖港使節出発延期等を協議」
・2/3今日」「12/21(1.29)【伏見】嘆願(23)勧修寺経理、藤森神社で井原の陳情を聴取/有栖川宮、井原に使者を遣わし、下坂して朝命を待つことを諭させる/【京】中川宮邸会議:慶喜・春嶽・宗城、慶喜らの朝廷参与、久光の叙任等を協議/」「12/22(1.30)【京】参与会議へ(16)春嶽、慶喜に幕習から脱した「創業」・政体の基本は衆議の上確定を確認、二条城の諸侯集会決定」「12/23(1.31)【京】朝廷、三条実美ら帰京主張の鷹司輔煕の関白罷免。二条斉敬、新関白に(慶応3年1月9日まで関白) 。徳大寺公純は右大臣、近衛忠房は内大臣。
・2/2「今日」「12/14(1.22)【京】嘆願(20)後見職邸で長州藩提出の書面を詮議、大久保利通列席。井原に帰国を命じることを決める。/長州家老井原、三度目の入京嘆願」「12/16(1.24)【京】嘆願(21)井原に帰国の朝命」「12/18(1.26)【京】将軍再上洛(21)中川宮・松平春嶽・伊達宗城、政事総裁職松平直克が上京の際は幕府の旧習への回復は非だと説得すること、島津久光叙任などを話し合う」「12/19(1.27)【京】 【伏見】嘆願(23)長州家老、四度目の入京嘆願/【京】慶喜・春嶽・宗城、伏見へ使者派遣・井原の口上聞き取りを評決/慶喜・容保、二条右大臣の諮問に対し、伏見に使者派遣すべきと答える」
・1/29「今日」12/9(1.17)【京】朝廷、慶喜に水戸藩士統率を委任/【江】将軍再上洛(18)勝、薩藩吉井幸輔に対し、大小目付が将軍上洛延期を主張し、幕議が紛糾している内情を報じる」「12/10(1.18)【京】将軍再上洛(19)春嶽・容保・宗城・久光ら連署で老中に将軍上洛を促す/【江】幕府、老中板倉に将軍上洛用掛を命じ、老中有馬道純に先発上京を命じる
・1/28「今日」「12/3(1.11)【京】孝明天皇、中川宮に疑心を起こさず扶助するよう命ず/嘆願(16)朝廷、伏見に執奏家雑掌を送り、聴取させる旨を達す「12/4(.1.12)【京】中川宮浮説(2)中川宮に浮説は気にせず扶助せよとの宸翰/中川宮・容保天誅の落書/【江】板倉随従(3)勝海舟、春嶽に書状。板倉上京周旋の困難を告げ、朝廷の沙汰を提案」「12/5(1.13)【京】参与会議へ(15)薩摩藩、賢諸侯を議奏にと提議。/中川宮浮説(3)在京諸侯連署の中川宮擁護の上書提出を決定「12/6(1.14)【京】将軍再上洛(16)慶喜、将軍上洛を促す上書/嘆願(17)長州家老井原、再度入京嘆願」12/7(1.15)【京】中川宮浮説(4)】慶喜・春嶽・容保・宗城・久光ら在京諸侯、朝廷に中川宮擁護の上書提出」「12/8(1.16)【京】慶喜、春嶽に、新総裁職松平直克が将軍上洛時に幕権回復を企図していることを告げ、その善後策を相談/朝廷、京都潜伏の長州人・浪士取り締まりを通達
・1/26「今日」「12/2(1.10)【江】鎖港使節()幕府、外国奉行支配組頭田辺太一らに横浜鎖港談判施設随行を命じる。/将軍再上洛(15)政事総裁職松平直克、容保に老中板倉勝静の将軍随従困難を述べ、後見職慶喜の帰府・江戸城の留守を任せることの周旋を依頼
・1/13幕末対比年表寛政9〜文久2年をいろいろ整理/「幕閣・幕臣列伝」コーナーUP。岡部長常大久保一翁の開明派幕臣が最初。
・1/9「今日」12/1(1.9)【京】嘆願(15)伏見の伊原、再び入京嘆願/慶喜・春嶽・宗城・久光、井原の趣意を聴取させるため、伏見に朝廷執次と所司代役人派遣することを決定
・1/8「今日」「11/29(1.8)【京】嘆願(14)春嶽、会津藩に井原の応接負担を提案。秋月、会藩と長藩は仇敵のような状況であると、これを断る」
・1/7「今日」「11/28(1.7)【京】嘆願(13)一橋慶喜・松平春嶽・伊達宗城、会藩公用方秋月悌次郎の強硬意見を容れ、長藩家老井原の入京不可を決める。
・1/6「今日」11/27(1.6)【京】嘆願(12)井原家老、伏見に到着/【江】将軍上洛を12月下旬と発表」/「11/8(12.18)【長】家老の入京嘆願(8)家老井原、奉勅始末&取調書提出に上京へ・久坂随従」に奉勅始末と取調書大意を追加
・1/5「今日」「11/23(1.2)【京】水戸藩主名代松平昭訓死去。」「11/26(1.5)【京】参与会議へ(14)将軍後見職慶喜入京。松平春嶽、慶喜と会談/【江】将軍再上洛(13)永井、着府して将軍上洛を説く/幕議将軍出発を12月下旬と内定
・1/4「今日」1月バージョンに更新
・1/1今日「11/19(12.29)【京】将軍再上洛(10)会津藩邸に春嶽・宗城・久光ら集会。江戸城火災による将軍上洛延引不可を議決/入京嘆願(10)乃美、再び入京許可を請う 「11/20(12.30)【京】将軍再上洛(11)越前藩と各藩から将軍上洛を促す使者を出すことを相談【江】吉井幸輔、勝に将軍上洛の勅周旋について相談する。」「11/21(12.31)【坂】慶喜、大坂城入城/【京】将軍再上洛(12)永井尚志東下

2004年 2003年 2002年 2001年 1999/2000年

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